無知の知、無知である事を知っているのに無知のままであることは無意味である【AI解説・仏教入門・哲学・スピリチュアル・仏教密教・瞑想・悟り・無常・縁起・因縁・因果応報・ワンネス・あるがままとわがまま・観念・正見邪見・善悪・非二元論・差別・無分別智・阿頼耶識・潜在意識・楽観・達観】

2025/04/18

■ 観念とは、正見である

―「知っているつもり」がすべてを見失わせる ―

■ 良いと思えば良くなる ― 心の自然なはたらき

私たちはしばしば、「良いと思えば良くなる」「悪いと思えば悪くなる」と言います。
それは決して単なるポジティブシンキングではなく、人間の意識が現実に与える影響力を語っています。

ある日、朝起きて「今日はなんとなくいい気がする」と思えば、
ほんの些細なことにも感謝の心が湧き、偶然の出来事さえも肯定的に捉えられる。

逆に、「今日はダメな日かもしれない」と思ってしまえば、
何をしても心に引っかかりが生まれ、周囲の出来事すら自分を責めているように感じてしまう。

このように、「良い」「悪い」という評価そのものが、私たちの体験の質を決定してしまうのです。

■ それを手にせず逃すこと

そうした「良さ」や「最高さ」にとらわれた瞬間から、
私たちはそれを「維持しよう」とし、「失うことを恐れ」ます。

すると、「今が良い」はずだった瞬間が、
「今を守るために怯える瞬間」に変質してしまう。

観念として良いと思ったものを、手にしようとしすぎた結果、
それを手に入れることができなくなる。
逃してしまう。
結果、良いものが何一つ手に入らない――

これは、本末転倒の構造です。

■ 無知とは、「知っている」という錯覚

なぜそんな逆説的なことが起こるのでしょうか?

それは、私たちが自分の「観念」に無自覚なまま、判断を繰り返しているからです。
つまり、自分が「無知であることを知っていながら」、なおも無知のままでいる――。

これは、仏教で言う「無明」、あるいはヨーガ哲学の「アヴィディヤー」に相当します。

知っているようでいて、行動も在り方も変わらない。
観念を理解しているつもりでも、その観念に取り込まれている。

無知とは、単に知らないことではなく、
「知ったつもり」になって、そのままでいる状態そのもの。

これこそが、私たちが最も見逃しやすい、深層の無明です。

■ 因果・因縁・阿頼耶識と観念の連鎖

この観念による判断は、仏教的な因果論、縁起、因縁のネットワークにおいても説明できます。

私たちの反応や価値判断は、過去の潜在的な印象――つまり阿頼耶識に蓄積された種子(びーじゃ)が条件として発動するものです。

「良い」「悪い」という思いは、自我を中心にした反応であり、
それがまた次の反応や行為の原因(因)となって、未来の結果(果)を作ります。

無分別智を持たず、善悪や損得、主観的な観念のまま判断し続ければ、
私たちは常に自己中心的な因果の網の中をぐるぐると回り続けます。

■ ワンネスと非二元、あるがままに在ること

「良い/悪い」「善/悪」「成功/失敗」といった二元的判断の背後にあるのは、
非二元の意識です。

悟りや瞑想の中で経験される「あるがまま」の世界――
そこには良いも悪いもなく、分別も区別もなく、ただ「今この瞬間」があります。

ワンネスとは、すべてが相互に関係しあい、隔たりなく在るという認識です。
無常を理解し、縁起に気づくことで、私たちは「手に入れること」や「逃すこと」そのものが幻想であることを理解します。

■ 観念とは、正見である

ここにおいて、観念とは単なる思い込みではなく、世界をどう見るかという態度になります。

それが自己中心的であれば邪見になり、
それが無分別智や縁起を見通したものであれば、正見となります。

観念とは、捨てるべきものではなく、
慎重に選ばれ、そして最後には手放されるべき視座である。

瞑想によって深く潜在意識に沈み込み、
阿頼耶識のレベルでの癖や条件反射を見つめるとき、
私たちはようやく「観念」というフィルターを透明にし、
それを通してこの世界を、正しく見ることができるようになる。

つまり、観念とは、正見である
その言葉の本質とは、観念を捨てることではなく、
観念そのものを“智慧の眼”に変容させるということなのです。

 

個人的後記

以下のプロンプトでは一発で認識しなかったので調整が必要だった。
AIは具象的で正しい(と教育されたバイアスによる)結果だけを求めているのか極論生成に至ってしまいやすいようである。
以下が抽象度が高いのも問題だったのだろう。

良いと思えば良くなり、悪いと思えば悪くなる。
今この瞬間に最高だと思う事が観念です。
それを手にせず逃すこと、
それは最高さえも手にしないことです。
最高の上はありません。
だから永遠に何も手に入れられないのです。
無知ゆえにです。
自分が無知であることを知っておきながら無知のままであることはまた同じようにそういうことです。
例え観念することが自己中心で自分が中心であっても、そうであっては本末転倒で意味がないのです。

この世界に中心というもの、また概念に中心は存在するかという問いを思いついたことがある。
どちらも観念次第だが自分中心自己中心であっても判断を誤れば自業自得で落ちていくのである。
つまり観念とは正見と邪見の両方が含まれており、正見いわば正しい見方をしなければならないのである。
そして仏教的には正見の正しさとは妄想を一切離れた悟りの境地や涅槃のことである。
ちなみに空に執着することも仏教用語で空想という。
空想の本当の意味は空に執着すること、つまり空だ空だと妄想することなのである。
仏教ではそれさえも超越しなければならない。

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