差別する自由はないのだろうか

2017/09/24

www.watto.nagoya
無法地帯の完全自由な世界とは差別とか殺人とか犯罪とされてることが許される世界。
犯罪がなぜ犯罪とされているのかを考えたほうが良い。
何故差別がいけないのか、なぜ殺人がいけないのかを知らないといけない。
社会がなぜそういう構造になっているのかを知らないと意味を見いだせないのである。
社会に意味が見いだせないと平気で反社会的になってしまう。
生きる意味を見いだせない場合は自殺に追い込まれてしまう。
意味を見いだせないというのは問題である。
何も考えられなくなってアホになるのである。

自由を実現することは良いのだが周りのことを考えながら実現しないと滅亡することに繋がる。
滅亡すれば自由が実現されないのだ。
殺されても良い者が殺されることに同意して、殺人が行われた場合、合理的と思えるが、
人間が死ぬことで人口が低下して社会が成り立たなくなってしまうという問題があるので許されない。
それに死後どうなるかわからないのに死ぬことは危険である。
まずは霊界の勉強ぐらいはしたほうが良いだろう。
たとえ霊界が存在しなかったとしても存在していた場合の事を考えて準備しておくべきだろう。

差別しなければならない理由は何らかの問題を解決するためだろう。
様々な国や社会が存在するわけで対立する場合がある。
社会を差別して社会をぶっ潰すような悪人がいた場合、社会が潰されてしまえば自由が実現できなくなり元も子もなくなる。
社会が進歩して問題なく自由が実現できるようになれば悪人の自由もそのうち叶えられるのではないだろうか。
生きている間に実現されないとわかった場合は悪人はさっさと社会をぶっ潰す可能性はあるかもしれない。
この世の最後が来たら人類はいまのうちにやりたいことをやるためやりたい放題になるだろう。

効率が悪いからある国を滅ぼすとか特定の人間を殺すとか差別することは本当に効率が良いのだろうか。
人間は知能的で高度な生命体であるから、悪人でもうまいこと利用すればそちらのほうが効率が良いと思えるが。
しかし面倒くさいのでやらないのかもしれない。そちらのほうが本人にとっては効率が良いということだろう。
生きるのが面倒くさいから死んだほうが良いとかいう発想に近い。
要するに自分ではどうすれば良いのか考えられないという発想力の低さが問題なのである。
他人がどうすれば良いのか考えられるのならその者に頼るという方法があるが、
それなら他人を差別するような事はしてはならないだろう。
他人に頼る、社会に頼るのなら他人や社会は必要だろう。
ある他人や社会が必要で、他のある他人や社会が必要ないからそれらを差別するのはどうだろう。
いつか必要になるときがやってくるのではないだろうか。
今後まったく必要になる予定がないし害しかないと予測できる場合はどうだろうか。
まだなにもされていないのだから差別することはできない。
何か害を及ぼした場合は更正か死刑か。なにかした場合は差別されて当然だろう。
死刑が必要かどうかは後日別で考えることにしよう。

なにをしたいかは人による。
自分の望みがたいしたことがないのなら簡単にひとりで自由は実現できる。
その者の欲望の規模による。かといって規模の大きい欲望を否定するわけではない。
多くの者を救うという規模の大きい欲望があれば良いことだ。
逆に規模が小さくて我々が価値のないように見えても、価値を見出している者にとったら価値があるのである。

何かした場合は差別されて当然なのだが、許容する事も可能である。
犯罪者を思いやることで許容することが出来る。
あるがままを受け入れることは全許容である。
殺されてもいいし拷問されてもいいし強姦されてもいいしなにをされてもいい事になる。
恐らく何をされても幸福に変換しているので問題ないのだろう。
マゾヒスティックである。
また仏に近い。
差別されても良いのならしても良いし、されたくないのならしてはならない。

そして将来差別しても問題が起きないような仕組みがある社会が実現されるかもしれない。
差別する自由は実現できるのならありだが、実現できないのでは差別してはならないだろう。
ではどのようにして差別されたくない者を差別しても問題ないようにするのだろうか。
洗脳とか我慢させるとかは無しだ。
どう考えても差別されたくないのだから差別してはいけないだろう。
どうやら超越的な手法が必要になるようだ。差別する自由があるとつぶやいた女は超越的な手法を編み出しているのだろうか。

人間を殺し社会を潰しても人間が相手ではなくなった後は自然や神が相手になる。
強大な自然や神の力に逆らうなんて言うことは超サイヤ人ブルーでもできないだろう。

未来で素晴らしい自由が実現できたとしても過去に苦労して死んでいった者はどうなるのかという問題がある。
霊界が存在するようなら死んだ者の精神体を幸福にする技術で自由を実現できそうだ。
頑固な精神体はそれを拒むかもしれない。地縛霊のようにそこにずっとい続けてしまう。

魂のレベル、霊格について思ったこと

2017/09/23

world-fusigi.net
精神にはレベルがあって、本能的なものがレベルが低く知能的なものがレベルが高いらしい。
ここで私が疑問に思うのはレベルを決めている基準とは何かである。
社会性なのかそれとも自分の自由を優先する事なのか。
本能的で攻撃的、利己的、恣意的な精神は自分の自由を優先している。
これらを否定する場合、社会性を優先していることになる。
自分の自由を優先することがレベルが低い精神という事は社会性を基準に考えていることになると思われる。
社会があることで自分の自由を他人と協力することで実現できたりする。
自分一人では叶えられないような事が社会があることで叶えられるようになる場合があるのである。
しかし自分一人で自由を叶えられる場合はどうだろうか。
反社会的になり攻撃的になり自分の思い通りの世界にすることがその者にとっての自由であり幸福である場合、
他人の事は関係なく社会の存在は無意味なのである。
そうした場合精神のレベルとは何なのかよくわからなくなる。
その者にとったら攻撃的で社会を潰すような事がレベルが高い精神であり、その者にとったらそれが幸福であるから問題ないのだ。
つまり真理的に精神にレベルなど存在するのだろうかという事である。

物質や肉体に依存することはレベルが低いとよく言われる。
精神が本質であり現実界の物資や肉体にだけ集中していてもダメだというのである。
しかし精神もこの世界の構造体の一部であるから精神も物質的なものだと思う。
精神体も構造があり物理的に動いているはずである。構造のないものはこの世界に存在できないはずである。
精神を無視する事がいけないのは要するに全ての構造をコントロールすることが望ましいということだろう。
脳を物理的に操作することで精神に影響を与える事ができるが、
脳や肉体だけコントロールしていても精神がダメになるということである。
精神は自分だけでコントロールしようと思えばできる。しかしこれが結構難しいのである。
観念することでコントロールが可能になるのだが修行して訓練しなければコントロールすることが出来ない。
精神薬や脳科学など物質に頼って精神をコントロールする方法と、自分の観念で精神をコントロールする方法、
どちらが良いかといえばどちらも駆使した方が良いと思う。
片方だけではコントロールできなくなる場合があるからである。
現実界の物質界が消滅すれば精神世界のみになると思われる。
しかし物質と精神が分離しているのかはよくわからない。
物質が消滅すれば精神も消滅する可能性もある。
その場合霊や霊界や精神世界は存在しなくなる。
つまり霊は物質的な脳が作り出した産物であり脳内に存在するという事である。
もし精神と物質は分離していて、精神だけになった時、肉体や物質だけコントロールしていた場合困るだろう。

全てをコントロールした方が良いという事は全てを受け入れて分析しなければならない
ここでスピリチュアルでよく言われる愛とか受容が求められる。
現実世界は思い通りにならなくて厳しい所である。
つまり自由を実現しにくいのである。
自分の自由を実現するには受容的になり分析し、全てをコントロールする方法を学ぶ必要があるのである。
コントロール可能になったその後、何をするかはその者の自由である。
社会を潰して人類を滅亡させる可能性もあるし、社会を築き人類を幸福にしてくれる可能性もある。
自分一人で自由を実現可能になれば前者、自分一人で実現不可能だと気づけば後者。

観念する事で全てが変化する可能性はある。
精神だけ鍛えて世界を自分の思い通りに変化させる事が可能になる。
その時物質は無意味になる。
精神をコントロールしていると思うが、精神のコントロールによって脳が物理的に変化していて精神に影響を与えているのかもしれない。
物質と精神は合体しているのかもしれない。
そこがまだよくわからないのだが、とりあえず両方カバーしておいたほうが良いのは確かだろう。
片方だけ鍛えても後で困るかもしれない。

ところで真理的に精神にレベルなど存在するのだろうか。
ある程度で満足するような精神の場合、そこがその者にとって最上であるが、他の者にとったらまだ上がある。
レベルが高い者が他人と比べて見下しレベルが低いとするのだ。
レベルの低いと言われる幸福はレベルが低かった頃なら最上であったはずだ。
自分のレベルが上がることで下が生まれる。
観念次第で何がレベルが高いか低いか決まるのである。
精神が拡張可能であるならば幸福追求は無限に続くだろう。
レベルが低いものでも後から楽しめる場合がある。
そして上とか下とかは勝手に決めつけているだけで本来生命が産まれる前は善悪は存在しない。
自然の動きに人間が善悪を決めている。
自然の意思が神の意思であるなら、我々は神の意思によって善悪を決めさせられている事になる。
神はいないのなら自然の動きでしかないが、そこに価値を見出した場合我々は幸福を求めることが出来る。
しかし囚われた場合不幸になる。それは煩悩として悩ます。
煩悩は進歩するためには必要だ。苦労することで学習して幸福や自由を実現できるようになる。
果たしてそうだろうか。
楽して学習して自由を実現できればその方が理想である。
しかし幸福があるから不幸があり不幸があるから幸福がある。
進歩のためにはリスクを伴う
果たしてそうだろうか。

自分と似た考え方をしている人間が多くいるから社会がある程度成り立っているが、
考え方が多様化すると様々な善悪の基準が生じ何が善悪なのかわからなくなるだろう。
その者にとったら善でも他の者にとったら悪になる。
多様化は自由を実現する。自由とはなんでもありだ。
自由な世界は犯罪も許されるし許されない。
ここでいう自由な世界とは無法地帯でやりたい放題な世界のことだ。
と、ここまで書いといて他のことをやっていたら思考停止したので終了する。

ちなみに自分で書いといてあれだが、全てをコントロールするには全てを受け入れなければならないのは少し疑問である。
もっと簡単にコントロールする方法があるかもしれない。


追記
今見ると意味不明なので簡単にまとめておく。
観念次第でなにがしたいか決まって、それが自分ひとりで実現可能で反社会的な内容なら社会に迷惑をかける危険性があり、社会的な内容なら社会を良くしてくれる。自分ひとりで実現不可能だとわかった場合、社会の仲間入りをすることになる。
そして多様化は自由を生むが、善悪が多様化してなにが善悪なのかわからなくなる。
多様化をうまくコントロールして社会を築き上げる必要がある。
自分の理想を実現できるかどうかが精神レベルの高さ低さを決めるということになる。
実現が難しいことが実現可能ならレベルが高く、実現不可能ならレベルが低い。
社会の場合は自分の理想の所が社会の理想に変わる。
自分の理想を実現するために社会が必要なら社会の理想も実現しないといけなくなる。

foobar2000のWindows版とAndroid版の音質を比較

2017/09/23

foobar2000Windows版とAndroid版の音質を比較した。

PC版であるWindows版のfoobar2000
Android版とどのような音質の違いがあるのか比較してみた。

プライマリよりHDのほうが音質がクリアになった。
HDは音が引き締まる。こちらと比較することにした。

ASIOとDACを使用するとPCの方が勝ってしまうので今回は使わないことにした。
PCのイヤホンジャックに直接挿す方法だ。

Windows版は音場がかなり広い。開放的。Android版は逆に狭い。
Android版は低ノイズで雑音がまったくない。クリーンな音質だ。
ボーカルがクリアでリアル。
Windows版はノイズが多い。音が潰れてしまう。
そしてかまぼこっぽい音質でボーカルが強調されている。
エネルギーの強さはWindows版の方が強い。
Androidはエネルギーが足りない貧弱な音だ。音場が狭くて小ぢんまりした大人しい鳴り方をする。
そしてAndroid版は少し滑らかさがない。空白というか間があるデジタルっぽい音だ。
Windows版の方がアナログっぽくて滑らかなのである。

まとめ

Android版のほうがクリーンでリアルな音質。ただし音場が狭く滑らかさがない。
Windows版の方が滑らかで音場が広く開放的な音質。ただしリアリティーがなくノイズが多い。
こんな感じだった。

スマホの種類やPCの種類でも変わってくるので注意。