所詮は知りたいだけ —— 「あるがままでは悪く、あるがままで良い」という二律背反を非二元的に観る
私たちは「あるがままで良い」と耳にすると、どこか癒やされる一方で、「でも、それで本当に良いのか?」という疑問も湧いてきます。
暴力的な衝動も、絶望も、社会への反抗も「あるがまま」なら、それを良しとしてしまっていいのだろうか?この問いの根底には、「知りたい」という衝動があります。
なぜ世界はこうあるのか。なぜ自分はこうなのか。何が正しく、何が誤っているのか。「あるがまま」にまつわる二律背反
- 「あるがままを受け入れよ」
- 「あるがままでは未熟だ、変容せよ」
この相反する命題は、理性的にはどちらも説得力をもち得ます。いわば、理性が自分自身の限界に直面する「二律背反(アンチノミー)」の典型例。
哲学的にいえば、ここには「存在(be)」と「あるべき(ought)」の衝突があり、スピリチュアルにいえば、「解放(liberation)」と「成長(evolution)」という道の分岐でもあります。
しかし、非二元論の視座では、この分裂そのものが幻想とされます。
非二元論:「知ろうとすること」すらもひとつの夢
非二元論(ノンデュアリティ)は、私たちが世界を「主体と客体」「善と悪」「進化と停滞」として認識しているその分別構造そのものが「意識の働き」による幻想だと見なします。
そしてその分別の最たるものが、「知りたい」という欲望です。
所詮は知りたいだけである
この視点は鋭い。私たちがスピリチュアルに求めている「悟り」でさえ、突き詰めれば「知りたい」の延長にある。
悟りたい、救われたい、理解したい、整合性をとりたい——すべて「知の欲望」の変奏曲に過ぎません。だが非二元の立場では、「知りたい」というその欲望すらも、ただの現れ(アパランサ/顕れ)であり、掴みとる対象ではないとするのです。
つまり、「知りたい」とも思っていない“それ”だけが、実在する。
では、「あるがままで良い」とは何なのか?
非二元の理解において、「良い」や「悪い」という評価は、すでに「あるがまま」ではなく「思考によって加工されたもの」です。
- 苦しみがあっても、それは苦しみ“という名のエネルギー”でしかない。
- 欲望があっても、それはただの「動き」でしかない。
- 自分が何かを「知りたい」と思っても、それはただの「立ち現れ」である。
この視点においては、「あるがままで悪い」とも、「あるがままで良い」とも言えなくなります。言語が届かない場所に到達する。
そしてそこに「純粋な沈黙」がある。それは言語を超えた瞑想の中で垣間見える、形なき“気づき”そのもの。
知ろうとすることは、否定されない——が、超えてゆける
ここで重要なのは、「知りたい」という衝動自体を否定することではありません。
むしろそれを深く見つめることで、そこから“超越”が起きる可能性があるということ。チベット密教でも、智慧(ジュニャーナ)と方便(ウパーヤ)の統合が強調されます。
知ること、学ぶこと、探求することは方便であり、悟りへと至る手段になり得ます。
だが最終的には、智慧と方便すらも空(シューニャ)であり、そこに固執する必要はないと説かれます。「所詮は知りたいだけ」と気づいたとき、知識欲から解放された本当の「受容」が始まるのです。
結語:「あるがままでは悪く、あるがままで良い」は超えてよい
このパラドックスは、思考には解けない問いです。
だからこそ、私たちは知ろうとし、問いを発し、そしてやがてその問い自体を超えてゆく。それこそが、非二元の真髄。
「所詮は知りたいだけ」という気づきこそ、知の終焉と超越への入り口なのです。
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