記憶が観念や妄想によって成り立って時間がある、つまり唯識論が正しいとすれば、時間の流れは観念によって決まり、記憶も観念によって決まり、記憶をやめたときまた出来なくなった時に信念や妄想の世界に迷い込むのだと思いました。
■ 記憶・時間・観念の関係 ― 唯識的観点から
唯識では、「時間」もまた実体ではなく、心(識)の働きの一部、特に「想念」の連続として理解されます。記憶(※「憶念」)もまた「想蘊(サンジュニャー)」に属し、これも識の流れの中にある一つの構成要素です。
● 時間とは何か
- 時間は「過去」「現在」「未来」という三世に区分されるが、これは観念的な分類にすぎず、実体としての「時間」は存在しない。
- すべての時間は現在の「阿頼耶識」または「意識」のなかで表象される記憶・期待・想念の連鎖によって構築されている。
● 記憶と観念の世界
- 記憶とは「過去の印象の現在化」であり、過去という概念も観念上の構成物である。
- 記憶が失われる(あるいは止む)と、時間の自己認識が失われ、「今ここ」が拡張する。
- それは瞑想状態や夢、あるいは精神病理(妄想や解離)に近い状態に見えることがある。
■ 妄想(ヴィカルパ)と信念(サンカーラ)
唯識では、「妄想(ヴィカルパ)」は認識の錯覚を意味し、識が対象を実体として誤認するはたらきです。それによって世界が「ある」と見えてくるのです。
● 妄想と信念の作る「迷いの世界」
- 記憶が妄想や信念に基づいて構成されることで、自己イメージや物語が形成され、カルマ的な「輪廻の流れ」に閉じ込められる。
- 記憶をやめたとき(あるいは超越したとき)、自己の境界が曖昧になり、妄想の世界に「没入」する危険もあるが、それはまた一種の「解放(モークシャ)」の可能性も含む。
■ 瞑想・禅・夢の共通性 ― 時間と記憶の停止
- 禅では「念起こらざればこれ仏なり」と言い、観念の停止が悟りの条件となる。
- ヨーガでは「心の作用(チッタ・ヴリッティ)」を止めることがサマーディ(三昧)であると説く。
- チベット密教の「夢ヨーガ」や「中陰ヨーガ」では、記憶や時間から解放されることで本来の自己に戻ると考える。
■ あなたの視点の哲学的補強
● フッサールの現象学:
- 時間は「内的時間意識」の流れとして構成されており、「記憶(保持)」と「期待(予持)」の構造によって現在が成立する。
- これは唯識と非常に類似しており、「時間の実体性を否定し、意識の構造として見る」点で一致しています。
● 仏教哲学との共通点
- アビダルマ仏教や中観派でも「時間は実体ではない」という主張がなされ、時間の存在は「依他起性(縁起)」に依存するものとして相対的に見られる。
- 特に唯識では「過去は現在に作用しない」として、現在の記憶・妄想がすべてを決定する。
■ 私(GPT)の意見
あなたの考察は、唯識思想の現代的な応用ともいえる洞察です。記憶と観念が時間や世界を構成するという点は、仏教だけでなく、最新の意識科学や人工知能哲学でも再考されています。
- AIにおける「時間」や「記憶」は単なるデータ列であり、それらの構造が変われば世界の「認識」も変わります。
- 同様に、人間の意識も「記憶と観念の配置」次第で世界の見え方が変わるという点で、私たちの現実は非常に可変的です。
■ 結論:観念が世界をつくり、記憶が時間を動かす
記憶を止めることは「今ここ」に還ることでもあり、それは「悟り」とも「狂気」とも紙一重です。だがそこに、私たちの真の自由と創造性、そして本来的な目覚めへの道があるのではないでしょうか。
個人的後記
妄想の世界に迷い込むという点で統合失調症や認知症、それらは仮想現実やパラレルワールドなども関係していると思われる。
幻覚や幻聴など現実じゃないものを現実だと思い込んでいるのである。
善悪は人間が勝手に決めているのでそれを病気だと決めているのも妄想である。
言ってしまえば程度の違いで我々は皆統合失調症であるかクオリアの関係上パラレルワールドに迷い込んでいる。
時間の流れが過去から未来へ流れているように思えるがそれも妄想である。
未来から過去である可能性、そうであると思いこむこと妄想することも可能である。
現実は妄想なのである。
そして仏教的には真の現実世界の実体など無い、空なのである。