完全だと面白くない。不完全だから面白い 〜幸福のパラドクスと「未完成の美」〜
「完全」という言葉には、なにかしらの「終わり」や「完結」を感じさせる響きがある。人はしばしば「完璧な愛」「完全な幸福」「理想の人生」を求めて生きるが、いざそれが手に入ったとき、どこかで退屈や虚無、空虚を感じてしまうことがある。これは一体なぜだろうか?
不完全性という宇宙のデザイン
古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスは、「万物は流転する」と語った。これは物事が常に変化し続けているという真理を示しているが、同時に「完全」という状態がどれほど一時的で不安定なものかを示しているとも言える。
チベット密教のマンダラにしても、それは厳密な幾何学に基づく完成された構造でありながら、必ず儀式の最後に「破壊」される。不完全に戻すことで、そこに宇宙のサイクルが再び立ち上がるのだ。仏教では「無常」が真理であり、あらゆる存在が一瞬たりとも固定されず、完全を保つことは不可能である。
幸福とは「完全に見えて不完全」な構造
私たちは「幸せになりたい」と願う。しかし、「幸福」は到達点ではなくプロセスである。それは、砂漠で水を見つけた瞬間のように、瞬間的に感じられるものだが、永続はしない。だからこそ人は求め続ける。
つまり幸福とは、「完全に見えるけれど実は未完成なもの」だ。パズルのように、すべてのピースがそろっているように見えて、よく見ると一片だけ抜けている。しかし、その「欠け」があるからこそ、私たちは探し続け、歩き続けることができる。
芸術と創造の「不完全美」
「わび・さび」という日本の美意識も、不完全性の価値を肯定する思想である。ひびの入った茶碗、斑のある焼き物、枯れた花。これらにこそ、時間の流れと命の儚さ、そして今この瞬間にしか存在しない「一回性(いちかいせい)」が宿る。
完璧にシンメトリーで均質なものは、機械的で、むしろ人間味を失っていく。AIがいくら写実的な絵を描けるようになっても、人間の手の震え、迷い、感情の滲み出た筆致には敵わない。それが創造という営みの本質だ。
トランスヒューマニズムと完全性の罠
技術が人間を進化させる時代、我々は「より完全な存在」になろうとする。AIによる補助、ブレインマシンインターフェース、遺伝子編集。これらは人間を「非人間的な完全さ」へと導くかもしれない。
しかし、すべてが最適化された存在に、「偶然」や「失敗」、そして「痛み」は存在するのだろうか? それらこそが物語を生み、人格を形作り、人生を面白くしているのではないだろうか。
完全な記憶力を持った人間がいたとしよう。彼には「懐かしさ」は存在しない。完全な身体を持つ者に、「不自由からの解放」という歓びはあるだろうか?
私たちは「不完全な神」である
神秘学的な観点から見れば、人間は「神性の分霊」である。しかしそれは、意図的に「不完全」であり、限定され、物質の世界に投げ込まれた存在だ。仏教で言う「化身」、ヒンドゥーで言う「アヴァターラ」のように、私たちは「不完全を体験する」ためにここにいる。
言い換えれば、「完全だった存在が、自ら不完全に成り下がることを選んだ」という、壮大なゲームを今プレイしているのだ。
終わりに 〜未完成であることの希望〜
「不完全だからこそ、探求できる。」
「不完全だからこそ、成長できる。」
「不完全だからこそ、人は人でいられる。」完全とは、停止であり、死である。不完全とは、変化であり、誕生であり、創造である。
そして我々の「幸福」もまた、常に満たされることのない「満ちかけの月」のように、美しく、儚く、しかし確かにそこに在るのだ。
個人的後記
幸福とは実は完全ではない。
不完全であるからして幸福を感じられるのである。
簡単な例えで言えば不幸があるから幸福がある。
不幸がなければ幸福と感じない。
逆に幸福があるから不幸もあると言える。
幸福と不幸の相互依存関係にある。
不完全の中に幸福を見出すことを侘び寂びとか観念という。
全ては観念である。