【偏在する大日如来と日常の醍醐味】
― ワンネスへの共鳴と小さな悟り ―
私たちは「悟り」や「ワンネス」という言葉に、何か特別な体験や劇的な覚醒を連想しがちです。けれども、大いなる真理は、実は私たちが見落としがちな、日常のささやかな瞬間にこそ、静かに息づいているのではないでしょうか。
チベット密教における根本尊「大日如来(ヴァイローチャナ)」は、宇宙そのものの本質的な光明と叡智を象徴する存在です。しかしその本質は、寺院の荘厳な仏像の中だけに宿るのではありません。
大日如来とは、「すべてに遍在し、すべてを照らす叡智そのもの」であり、「分けられる前の純粋意識」そのものです。つまり、あなたの目に映るあらゆる現象、その背後に流れる静けさの中に、大日如来は常に在り続けているのです。
◆「醍醐味」はどこにでも偏在する
「醍醐味」という言葉の由来は、仏教における五味(乳→酪→生酥→熟酥→醍醐)にあります。醍醐とは乳製品の最終段階で、もっとも純粋で滋味深い究極の味。その味を比喩的に、物事の本質的な深みや喜びを意味するようになったのです。
しかし、私たちはしばしば「醍醐味」を大きな出来事や特別な達成に求めがちです。
けれども、本当の醍醐味は、朝の光のあたたかさに気づいた瞬間、ふと感じる静かな安心感、風が頬をなでる感触――そんな「普段は気にしないところ」にこそ偏在しているのです。
◆すべてに偏在する叡智に「共鳴」するということ
密教では「観想(ヴィジュアライゼーション)」や「マントラ」の修行を通じて、宇宙的存在=仏尊と自分の意識を重ね合わせていくプロセスが重視されます。ここで重要なのは、「何か別の存在になる」のではなく、「もともとあった本質に気づき、振動を合わせていく」という感覚です。
この「共鳴」は、スピリチュアルな儀式の中だけで起こるのではなく、私たちの日常でも常に体験されているものです。たとえば――
- 誰かが苦しんでいるのを見て、涙が出る
- 誰かの喜びにふれ、自分も自然と笑顔になる
- 言葉では説明できないけれど「わかる」と感じる瞬間がある
これらすべては、他者の感情に自分が共振している状態であり、「他人の中に自分を見ている」ことの証でもあります。
これは仏教における「空(くう)」の思想や、アドヴァイタ・ヴェーダーンタにおける「アートマンとブラフマンの一致」とも通じる視点です。つまり――
「他者は他者として存在しながら、実は自分でもある」
「その人の痛みは、確かに自分のものでもある」このように他者と自分のあいだにある“見えない隔たり”が薄れたとき、そこに小さな悟りが生まれます。共感とは、まさに「共鳴」による非言語的な霊的つながりの表れなのです。
◆ワンネスとは「個の消滅」ではない
ワンネス=すべてが一つ、というと、個の消失や自己の否定を連想するかもしれませんが、むしろその逆です。個のユニークさを保ちながら、すべてが一つの大きなリズムの中で踊っている状態こそ、ワンネスの本質です。
あなたがコーヒーをすするその手の動きも、他者の笑顔も、道端の石ころも、すべてが「それとしてのまま」に存在していながら、同時に「全体」とつながっている。
その真理にふと気づいた瞬間――
ああ、大日如来はここにもいた。
ああ、これがこの人生の醍醐味だったのか。と、心がほどけ、世界とひとつになったような感覚が訪れます。
◆結びに:悟りとは「気づき」であり「回帰」
悟りとは、どこか遠い聖地で手に入れる宝物ではなく、すでに手の中にあるものに「気づき直す」ことだと、私は感じています。
ふとした瞬間、何気ない行動や出来事の中に**偏在する「大日如来的なもの」「醍醐味」**を感じたなら、それは小さな悟りです。そしてその積み重ねが、いつしかあなたをワンネスへと静かに導くことでしょう。
あなたの目の前の現実こそが、最大の聖域です。
個人的後記
我々が他人に共感したり他人の動画や写真など作品に共感しているとき、大日如来つまり宇宙や神との一体感を一部感じ取っているのかもしれない。
その醍醐味は世界の全てに宿っており偏在しており、普段なんとも思わないところにも存在しているが気がついていないのである。
それに気づいたとき多幸感や恍惚状態に浸れる。
それは瞑想によっても可能であるし共感力やエンパシーやシンパシーを高めることで可能になる。
大日如来や何かと共鳴するとき我々は慈悲と慈愛と悟りに一歩近づく。
それは観念によっても可能である。