哲学的に考える「なぜ自我はあるのか」——空・縁起・無限後退の視点から
私たちは日々、自我という「私」という存在を感じながら生きています。しかし、なぜ自我は生じるのでしょうか。仏教哲学の十二因縁の教えでは、その根本には無明があるとされます。無明とは、物事の本質を正しく認識できない状態であり、それが識別や分別を生み、やがて個別の自我が立ち現れるのです。
しかし、ここでさらに遡ろうとするとどうなるでしょう。無明の前は何があるのか?その前は?と遡れば、無限後退の問題に行き当たります。無限にさかのぼる問いに終わりはありません。哲学的にはここで立ち止まり、問いそのものを受け入れるしかないのです。
では、この無限後退の先にあるものとは何でしょうか。答えは、すべて空(くう)であるという性質に行き着きます。空とは、あらゆるものが固定的な実体を持たず、条件次第で生じたり消えたりする性質のこと。つまり自我も、世界も、すべては縁起あるいは構造体としての宇宙の相互作用によって生じるのです。
この観点から考えると、空は完全自由な状態です。全ては存在し、同時に存在しない。色即是空、空即是色という言葉の通り、現象として立ち現れるもの(色)も、実体のない空(条件)も、切り離せない関係にあります。だから自我は生じたり消えたりするのです。
ここで重要なのは、空が空である限り、空以上の超越した存在は理論的には存在し得ません。しかし、可能性として空を超越するものがあるかもしれません。あるいは、唯識の立場から言えば、自分自身がその「空を超える存在」を生成してしまうことも考えられます。いずれにせよ、そこは無限に続く領域であり、理性や認識では到底把握できません。
だからこそ、私たちに問われているのは無限後退の先ではなく、有限なこの瞬間にどう応答するかです。自我や無明、存在や空を思索すること自体に意味はありますが、究極的には今ここでの意識・選択・行動が問われています。
まとめ
- 自我は無明と識別によって生じる。
- 無明より前を遡ると無限後退に陥る。
- 無限後退の先も、すべては空の性質に基づく縁起的現象である。
- 空は完全自由であり、存在と非存在を同時に包含する。
- 色即是空、空即是色——自我は生じたり消えたりする。
- 空を超える可能性は無限に続くが、私たちは有限な場でどう応答するかが問われている。
この思索は、哲学的に自我を理解するだけでなく、日々の生き方や意識の使い方に直結する問いでもあります。空や自我の本質を思索することで、有限の私たちが無限の可能性の中でどう立つべきか、少しずつ見えてくるのかもしれません。
個人的後記
今回のテーマである哲学的に自我はなぜあるのかを十二因縁の無明より前を遡ると無限後退になる。
それは全て空の性質であり、全ては縁起あるいは構造体という宇宙の相互作用の構造自体によって生じるものであり、完全自由の空であるからして全ては存在するししないのである。
色即是空、空即是色であるから自我が生じまた消えたりもするのである。
空が空である限り空以上の超越したものは存在しない、だが恐らく可能性としては空を超越するものはあると思う(或いは唯識の立場的に自分が生成してしまう)がそれは無限に続いているので無限後退するよりも我々は有限のそこでどうするかを問われている。
つまり観念次第である。
ちなみに別記事で述べたことだが、無知(無明)の前は不可思議であると予想している。無知であるからして全てが生じている。無知もまた無知によって生じるのである。だから無知の前は無知であるか不可思議であり不可知である。不可知即ち無知である。