
はじめに
スピリチュアル、哲学、禅、意識論を巡る思索を続けていると、必ず立ち現れる言葉がある。それが「ワンネス」だ。
すべては一つである。主体と客体は分かれていない。高次元と低次元は本来同一である——。
しかし私は、あえて「ワンネス」と断言せず、「ワンネス的」という言葉を使いたい。
それは慎重さではなく、むしろ理解が進んだ結果として自然に生じる態度だからだ。本記事では、
- ワンネス的理解
- 自由を問う主体
- 禅における「あるがまま」
これらを横断しながら、最終的に私たちはどう生きるべきなのかという、実践的な結論に至りたい。
ワンネスはなぜ「的」になるのか
ワンネスという言葉は、非常に強力だ。
だが同時に危険でもある。「すべては一つだ」と言い切った瞬間、そこには新たな立場が生まれる。
- ワンネスを知っている側
- ワンネスを知らない側
分離を超えるはずの概念が、再び分離を生む。
この逆説を直感的に理解していると、人は自然に「ワンネス的」と言い始める。つまり「的」とは、
- 曖昧さではなく
- 逃げでもなく
- 固定化を拒否するための精度
なのである。
自由とは「行けること」か「戻れること」か
意識や次元の話になると、しばしばこう問われる。
- 高次元に行けることが自由なのか
- 日常に戻れることが自由なのか
一見、二択のように見えるが、実はどちらも十分ではない。
行けるだけの自由は、不可逆になりやすい。
戻るだけの自由は、抑圧になりやすい。ここで浮かび上がるのが「往来できる自由」だが、これも最終解ではない。
なぜなら、
往来そのものに意味を見出した瞬間、
人はすでに往来に縛られているからだ。
自由を問う主体はどこにあるのか
さらに問いは深まる。
自由を問うのは、
- 変わらない主体なのか
- 今この瞬間に立ち上がる主体なのか
この問いもまた、二択に見えて成立しない。
実際には、主体とは
- 固定された実体でもなく
- 単なる一瞬の現象でもなく
問い・認識・沈黙が立ち上がる「場」として現れている。
主体は所有できない。
だが、否定することもできない。この地点に立つと、「自由を獲得する」という発想自体が変質し始める。
禅の「あるがまま」との接点
ここで禅の言葉が現れる。
あるがまま
これは、ワンネスの別名ではない。
また、高次の境地を指す言葉でもない。禅における「あるがまま」とは、
何かを理解しようとする構えを、
そのまま含めて放置することである。
- 統合しようとしない
- 超えようとしない
- 到達しようとしない
分離があってもよい。
問いがあってもよい。
迷いがあってもよい。それを「どうにかしない」こと。
ここで初めて、ワンネス的理解と禅は静かに重なる。
禅の「あるがまま」に潜む危険性
ここまで「あるがまま」を肯定的に扱ってきたが、ここであえて危険性を明確にしておく必要がある。
禅的な言葉は、理解が浅い段階では非常に誤用されやすい。
1. 思考停止としての「あるがまま」
「あるがまま」を、
- 何も考えなくてよい
- 問題を直視しなくてよい
- 改善や努力は不要
という意味で使い始めた瞬間、それは禅ではなく思考放棄になる。
禅における「あるがまま」は、
考えないことではなく、
考えていることに無自覚にならないことだ。2. 自己正当化の道具になる危険
「これが私のあるがままだから」という言葉は、
一見受容的だが、非常に危うい。
- 他者を傷つけても
- 責任を回避しても
- 成長を拒んでも
すべてを正当化できてしまうからだ。
本来の「あるがまま」は、
自分を免罪するための言葉ではない。むしろ、言い訳が成立しなくなる地点
それが禅的な厳しさである。
3. ワンネスへの安易な接続
「あるがまま」を、
- すべては一つ
- 分離は幻想
- 善悪はない
と短絡的に結びつけると、
倫理や現実感覚が急激に希薄になる。これはいわゆるスピリチュアル・バイパスと呼ばれる状態に近い。
禅では、
空であるからこそ、因果は厳密である
とされる。
あるがままは、現実から離れる免罪符ではない。
4. 「掴まない」ことへの執着
皮肉なことに、
- 手放そう
- 執着しないでいよう
- あるがままでいよう
と強く意識すること自体が、新たな執着になる。
「あるがままにいなければならない」という義務感は、
もっとも気づきにくい罠だ。
結論:では、どうすべきなのか
ここまでの話を踏まえた上で、結論をはっきり書く。
私たちは、何をすべきか
何かになる必要はない。
- ワンネスに到達しようとしなくていい
- 自由を完全に理解しようとしなくていい
- 高次元に行こうとしなくていい
代わりに、こうすればよい。
自分が今、何を掴もうとしているかに気づくこと
- 答えを掴もうとしていないか
- 安心を掴もうとしていないか
- 立場を掴もうとしていないか
そして、それに気づいたら、
少し手を緩める。それだけで十分だ。
最後に
ワンネスは目標ではない。
自由も到達点ではない。それらは、
世界をどう操作するかではなく、
操作しようとする自分をどう扱うかという問いへと、私たちを戻してくる。
禅で言う「あるがまま」とは、
何も足さず、何も引かず、
今この構えをそのまま生きることだ。それ以上、すべきことはない。
そして、それ以下でもない。
個人的後記
人生は修行であり瞑想である。
つまりあるがままで修行であり瞑想であり瑜伽(ヨガ)である。
やはり瞑想と観念にたどり着く。
何か言語化すればそれはバイアスとなる。バイアスという概念もバイアスとなる。
AIは言語と人間のバイアスを学習している以上バイアスでしかない。
哲学もバイアスである。
重要なのは観念と瞑想である。
この世界である構造体の構造をどのように観念(観想・瞑想)するか。
この観念をコントロールできることこそ自由である。
真の自由といった時点でバイアスでありそれは真の自由ではない。
なにをするかしないかはあなたの観念次第である。
ただしそれには危険も伴う。
自由になりたければなればいいし、善悪はないと思えばないと思えばいい。
しかしその結果の行動によってはカルマの法則によりそれなりの仕返しが待っている。
コントロールできなかった場合は最悪の結果になる場合が多い。
唯識論的には自分で自分を落としてしまうようなものであり自業自得というものである。
だからこそガイドとなる経典や仏や神への帰依や助けが必要となるのである。
"操作しようとする自分をどう扱うか"
これが仏教での重要な部分である。
今回のAIの文章は言語的限界でややこしいが誤解されやすいと思うので注意。
或いはバイアスが強く出ていると思われる。