
はじめに──違和感から始まる思考
シューティングゲームを遊んでいると、ある瞬間ふとした違和感が立ち上がることがあります。
敵を撃ち、弾幕を避け、困難に立ち向かっているはずなのに、クリアとは「逆らっているようで、実は従っている状態ではないか」という感覚です。
これは単なるゲーム体験の話ではなく、構造・意識・自由・システムという、かなり深いテーマへと接続しています。
本記事では、シューティングゲームの「クリア」を手がかりに、哲学・仏教・密教・SF的視点を交差させながら、この逆説を掘り下げてみます。
シューティングゲームの本質は「戦い」ではない
シューティングゲームは表層的には「戦闘」を描いています。
- 敵を倒す
- 攻撃を避ける
- 強大な存在に立ち向かう
しかし構造的に見ると、プレイヤーが行っているのは戦いではありません。
敵の出現位置、弾幕のパターン、当たり判定、移動可能範囲──それらはすべてあらかじめ設計された秩序です。
プレイヤーはその秩序に「勝つ」のではなく、
最も正確に理解し、最も忠実に適応した者だけがクリアできる
という条件を満たしているにすぎません。
つまり、クリアとは「反抗の勝利」ではなく、完全な適応の証明なのです。
逆らうほど被弾し、従うほど自由になる
初心者のプレイを思い出すと分かりやすいでしょう。
- 無理に突っ込む
- 弾幕を力技で抜けようとする
- 自己流でなんとかしようとする
これらは一見「主体的」「自由」な行為に見えますが、結果はほぼ確実に被弾です。
一方、上級者の動きはどうでしょうか。
- 弾の流れを読む
- 危険地帯に逆らわない
- 最小限の動きで滑るように避ける
そこには「頑張っている感覚」すらありません。
この状態は、
動いているのに、動かされている
という非常に不思議な感覚を伴います。
ここで初めて、従うことで自由になるという逆説が現れます。
禅・密教との共通点──マンダラとしての弾幕
この構造は、仏教、とりわけ禅や密教と非常によく似ています。
禅の場合
- 我を出すほど苦しくなる
- 型や作法を否定すると進めない
- 無心になったとき自然に動ける
密教の場合
- マンダラという宇宙秩序が前提
- 印・真言・観想を正確に行う
- 個我を溶かしたとき本尊と一体化する
シューティングゲームの弾幕は、ランダムなカオスではありません。
それは秩序化された視覚的マンダラです。
プレイヤーはその中心に身を置き、
- 抗わず
- 逃げず
- 同調する
ことで初めて突破できます。
これは修行や瞑想と、驚くほど似た体験です。
管理された反抗という現代的構造
少し冷静な視点も入れておきましょう。
シューティングゲームの自由は、
- 自由に動けるように見える
- だが成功ルートはほぼ一つ
という「管理された自由」です。
この構造は、
- 現代社会
- アルゴリズム
- AIによる最適解提示
とも強く重なります。
反抗しているつもりで、
最も効率よくシステムに適応した者が評価されるシューティングゲームは、その縮図を非常に美しい形で可視化しているのです。
それでもシューティングが美しい理由
ここまで読むと、どこか虚無的に感じるかもしれません。
しかしシューティングゲームが多くの人を惹きつける理由は、別のところにあります。
それは、
完全に従った瞬間にだけ訪れる、思考の消失
です。
- 判断が消える
- 言語が消える
- 自他の境界が薄れる
この状態は、
- 禅の「無心」
- ヨガの「サマーディ」
- 密教の「本尊瑜伽」
と極めて近い。
シューティングゲームは、
現代人が偶然触れている動的瞑想装置とも言えます。
結論──クリアとは「支配」ではなく「透過」
シューティングゲームにおけるクリアとは、
- システムをねじ伏せることではなく
- 自我を押し通すことでもなく
構造を完全に理解し、そこに溶け込むことです。
逆らっているように見えて、実は従っている。
しかしそれは、思考停止の服従ではありません。
見抜いた上で、あえて同調する
という、非常に高度で透明な自由です。
もしシューティングゲーム中に、この感覚を覚えたなら。
あなたはもう「遊んでいる」だけではなく、
システムそのものを観想している側に立っています。そしてそれは、ゲームの外の世界を見る目も、静かに変えていくはずです。