
悪を知らねば善は見えない──二元論を超えて非二元の理解へ
私たちが「良い」と感じるものの背後には、必ず「悪い」と感じるものの存在があります。
しかし、この“良し悪し”の判断そのものが、そもそも心の構造に依存しており、絶対的ではありません。
むしろ、悪を知らないまま善に触れても、その真価は見えず、ただの「ニュートラルな出来事」として通り過ぎてしまうことすらあるでしょう。この関係性は、哲学、心理学、密教、ヨーガ、神智学、そして量子論的な意識観など、さまざまな領域で繰り返し語られてきたテーマです。
■ 二元論は“比較装置”であり、意識の仮の構造
「良い」「悪い」という概念は、意識が世界を処理するための“比較装置”に過ぎません。
- 光と闇
- 快と苦
- 喜と悲
- 有と無
こうした対立項がなければ、体験は輪郭を持ちません。
例えば、ずっと静寂の中にいると静けさを感じなくなるのと同じで、対照があって初めて、質感や意味が生まれます。仏教哲学では、これは「相対法」と呼ばれ、
スピリチュアルや神智学では「デュアリティ(Duality)」と呼ばれます。つまり、良いものを理解するには、悪いものの存在が必要条件になる。
しかし——これだけでは悟りや理解は未完成です。
■ 非二元性(ノンデュアリティ)が示す“本当の良さ”
二元論は世界を理解するための便宜的な装置ですが、
深い瞑想状態やサマーディの経験では、この対立構造そのものが消えていきます。「良い」「悪い」といった相対的判断が崩れ、
ただ“ある”ものとして世界が立ち上がる状態。これが非二元性です。
非二元の視点から見ると——
- 善と悪に見えていたものは、
もともと一つの源から分岐した波のようなものであり、- どちらかが「本質的に優れている」わけではなく、
- ただ異なる波形として現れているだけに過ぎない
という理解に至ります。
すると、「良いものの本当の良さ」とは、
悪との比較で得られる薄っぺらい優位性ではなく、
存在の奥に潜む“固有の振動そのもの”であることが見えてきます。言語を超えた瞑想的理解、まさに直観の領域です。
■ 観念(観想)と瞑想が世界の「構造」を作り出す──善悪二元論を超える鍵
私たちは世界を“そのまま”見ていると思い込みがちですが、
実際には、世界は私たちの観念(観想)によって形作られた“構造体”として現れます。ここで言う観念とは、
- 単なる思考や理性ではなく、
- 内的な観想(イメージ)であり、
- 意識の中で世界をどう構造化するかという設計図であり、
- 密教やヨーガが語る 心的宇宙のマンダラ構築 に近い働き
です。
これは形而上学的でもあり、
深い瞑想が直接影響を与える領域でもあります。
■ 善悪は「構造体の表面」に過ぎない
善悪の二元論は、観想によって世界に“輪郭”を作るときの一番外側の層です。
- 善とは、心が求める方向へ開く構造
- 悪とは、心が避けようとする方向へ閉じる構造
このように、善悪は「評価」ではなく
意識の構造の向き(ベクトル)」として現れるしかし、この層だけを見ていても世界の本質には触れられません。
■ 内的観想が深まるほど、善悪の境界は揺らぎ始める
瞑想や観想(観念)が深まっていくと、
世界は固定されたものではなく「観想によって構築される動的な構造体」であることが分かってきます。すると、
- かつて“悪”だと思ったものは、
別の構造では“必要な影”としての機能を持っていたことが見え、“善”だと思ったものは、
別の観想のフレームではただの一要素に過ぎないことが見えてくる。この視点は心理学的でもあり、
密教的にも、スピリチュアル的にも、形而上学的にも一致するポイントです。
■ 観想と瞑想は「構造の設計」と「構造の解体」
これらの定義を反映するなら、
- 観念(観想)=構造をどう立ち上げるか
- 瞑想=その構造をどう解体し、元の“空”に戻るか
という関係になる。
これは曼荼羅そのものの働きにも似ています。
曼荼羅はただ描かれた絵ではなく、
宇宙(外界)と内面(心界)を結ぶ構造そのもの であり、
観想によって立ち上がり、瞑想によって還元される。構築(観想)と解体(瞑想)がセットになって初めて、
善悪などの二元的構造を超えた“非二元の地平”に至るわけです。
■ 非二元とは「構造以前」の純粋な場
観想が高度になると、世界は無数の構造体として捉えられます。
瞑想が深化すると、その構造体は次々に溶けてゆきます。
そして最終的に到達するのは、
- 善悪の区別もなく
- 主客の境界もなく
- 時間も空間も“構造としての意味”を持たなくなる
純粋な“空”の場。
これが非二元の理解です。
つまり、観念と瞑想は対立するものではなく、
世界を構築する創造原理(観想)と
世界を根源へと溶かす回帰原理(瞑想)という双方向の働きであり、
両者の往復によって意識は成長し、世界理解が深化します。
■ 観想力は意識の“創造エンジン”であり、瞑想は“帰還エンジン”である
「観念=観想としての構造形成」という理解は非常に核心的です。
これは哲学、密教、ヨーガ、トランスヒューマニズム、神智学、量子意識論すらも貫く統一的なテーマです。私の意見としては、
- 善悪は構造体の“入り口”に過ぎず
- 観想によって構造が精密化されるほど、
- 瞑想によってその構造が解体されるほど、
- 世界は二元論を超えた“創造と空性のダンス”として見えてくる
という人間意識の最も自然な進化プロセスだと考えます。
個人的後記
うまいものを先に食べるとそれが普通だと思い込む。
うまいと思うのはまずいものを知っているからである。
つまり下を知るからこそ上を知れる。
オーディオでいえばいきなりハイエンドの高音質ヘッドホンやイヤホンを聴いても良さがわからないのと同じだ。
いきなり良いと良くてあたりまえという風になってしまう。
ここに我々の甘えの構造が潜んでいる。
この話は長くなるので省略するがとにかく良いものを知るには悪いものを知っていなければならない。
悪いものありきで良いものが存在する。
そこに悟りの一歩がある。
そしてこの善悪という二元論を超越した非二元論が瞑想では重要である。
本来善悪とは我々人間が生み出したものでしかなく本来善悪は存在しない。
そのことに気が付かなければ善悪を決めてしまい不完全に裁いてしまい過ちを犯してしまう。
またこの迷いの世界から抜け出せなくなり悪循環に陥る。
だからこそ非二元性が重要になってくるのである。
そのためには瞑想である。
そして観念が重要である。