現実はフルリアルであるがゆえに夢を失ったのか?――余白の見方を取り戻す
80年代のゲームを思い出すと、ドット絵の粗いグラフィックがかえって想像力を刺激し、夢を与えてくれたことに気づきます。制約が大きかったからこそ、私たちは脳内で補完し、足りない部分を自由に描き足す余白を楽しんでいたのです。制限が想像力の源泉となっていた、と言ってもよいでしょう。
では、現実世界はどうでしょうか。圧倒的なリアルさで満ちており、すべてが細部まで描き込まれているように見えます。空気の揺らぎも、星空の輝きも、草花の微細な模様も。そこにはすでに「完成された絵」があり、想像の余地がないように感じるかもしれません。そのために、私たちは「夢」を失ってしまったように錯覚するのです。
しかし、本当にそうでしょうか。
見えている現実は“編集された像”にすぎない
実際には、私たちの脳は限られた感覚器で世界を知覚し、その断片を組み合わせて「リアル」を作り出しています。見えているもの、聞こえているものは、膨大な情報から編集された一部にすぎません。つまり、私たちは常に補完しながら現実を体験しているのです。
仏教の密教的な観点から言えば、これは「空(くう)」の思想に通じます。あらゆる存在は固定した実体を持たず、縁(関係性)によって成り立っています。私たちが見ている“完成された世界”も、実は縁起の網の目の一部であり、視点を変えれば別の姿を現すのです。現実は完成されたフルスペックのグラフィックではなく、無限に姿を変える曼荼羅のようなものだといえるでしょう。
夢は現実の中に眠っている
日常の何気ない風景も、視点を変えれば夢に満ちています。星を見上げれば、ただの点の光に見えるものが、実際には途方もない銀河の一部です。風に揺れる木の葉も、分子レベルでは複雑な舞を踊っています。密教で曼荼羅を観想するように、私たちの前に広がる現実世界もまた、一つひとつが象徴であり、そこに無限の物語が潜んでいます。
80年代のゲームに夢を見たのは、制限が余白を与えてくれたから。現実に夢を見られないとしたら、それは「余白を見つける視点」を忘れてしまったからでしょう。
余白を取り戻すために
夢や想像を取り戻すために必要なのは、新しい仮想空間やテクノロジーだけではありません。むしろ、現実に眠っている余白に気づく感性を取り戻すことです。密教における瞑想や観想の実践は、そのための優れた手段です。呼吸や真言を通じて「空」を体感すれば、世界が固定された完成品ではなく、常に変化し続ける未完成の絵であることに気づきます。
そうすれば、私たちの目の前の現実は、再び夢を投影できる最高の曼荼羅となるでしょう。
個人的後記
ドット絵のレトロゲームは容量やマシンスペックの制約から難易度が難しく作られている。
つくりこみはなかなか当時にしては細かいが今思えばチープなものである。
しかしこの制約があったからこそ脳が足りない部分を補完して想像力をかきたて夢があったように思う。
現代でレトロゲームをするにあたってはこの前知識が必要であろう。
でなければクソゲー扱いされるかしてしまう可能性がある。
では現実世界はどうだろうか。という思考実験が今回のテーマである。
現実世界は完全にリアルである。
しかし実際は脳が目に入った光や情報を脳が補完、修正しているだけである。
脳内の出来事や感覚で留まる。
実際現実の世界がどのようなものなのかは人間にはまだ認知できない。
目に見えない紫外線、電磁波、電気などは目に見えない。
見えたとしてもノイズのようなものかもしれないしひもの波動しかないのかもしれない。
あるいはバイナリのような0と1のプログラムかもしれない。
このように現実世界であっても完全にリアルとは言い切れず、仮想現実に過ぎないのである。
そしてこの仮想現実に必要な前知識とは我々の限界の事である。
つまり前知識として、我々の不自由さや苦しみや困難さをまず理解した上で生きる必要があるということである。
そうでなければクソゲーのような人生になるからである。
それは観念というものであり、観念によって苦しみを前知識として理解し、観念によってどう乗り越えるかを想像するのである。
いわば取扱説明書や攻略本が必要なのである。
攻略本がお経であり仏教の経典でありそれを知ったうえで瞑想なりで観念的になる必要がある。
全ては観念である。
そしてリアルと夢、これは有限と無限のようである。
リアルは完全にリアルでつまらない有限のようなものであるが、夢は無限である。
つまりこの現実世界が完全にリアルでないのは夢を持たせるためであり無限の可能性を見出せるためである。
そしてこの無限の楽しみを享受することが大切なのである。
それがまた観念である。