「動かないもの」に宿る力──仏像の静寂が示す真の価値とは何か
私たちは日常の中で、常に「動くもの」「変化するもの」「刺激的なもの」に目を奪われがちだ。現代社会は、速さ・成長・進化を善とし、止まっているもの、変わらないもの、じっとしているものに対しては「退屈」「意味がない」「価値がない」といった印象を抱きやすい。
だが、ふと立ち止まって考えてみてほしい。動かず、変わらず、静かに佇むものの中にこそ、私たちが見落としている大いなる真理が宿っているのではないか?
仏像とは、止観瞑想の化身である
仏像とは、仏の姿を象(かたど)った「静止物」である。動かない。語らない。常に同じ姿勢を保ち続けている。それは一見、現代的な価値観からすれば「つまらないもの」と捉えられるかもしれない。だが、そこにこそ仏像の本質がある。
仏像が象徴するのは、「止観(しかん)」の境地。すなわち、心の動きを止め、内なる世界を観じ、煩悩や思考の渦から自由になるための瞑想状態である。
この静止は、「無反応であること」ではない。むしろその逆だ。あらゆる感覚や欲望、思考の波に翻弄されない「揺るがぬ精神の軸」を持つこと。それが仏像が無言で私たちに語りかけているメッセージなのだ。
動的なものへの偏愛が生む煩悩と苦
人はなぜ、動くもの・新しいものに惹かれるのか。それは「変化こそ価値である」という幻想に囚われているからだ。情報、流行、美、経済──すべてが「常に更新されていなければならない」という強迫観念に支配されている。
この感覚は、チベット密教や仏教哲学でいう「渇愛(ターナー)」と呼ばれる煩悩の一種である。動的なものにばかり価値を置くと、静的な存在に対して「つまらない」「役に立たない」と差別的な目を向けるようになる。これは現代社会の差別や格差問題の根本にも通じる。
仏像が「動かない」ことにこだわっているのは、その静止の中に本当の自由、そして平等の感覚があるからだ。人間の価値を「行動」や「能力」や「生産性」で測るのではなく、「ただ在ること(being)」そのものに価値を見出す──そのような観念的転換を促してくれる存在なのである。
つまらなさの中にこそ、ワンネスの扉がある
私たちの文化は、面白さ・快楽・刺激を追い求めるあまり、「退屈」や「無為」を恐れてしまっている。しかし「退屈なものに美を見出す感性」「何も起きない中に満ち足りる精神」は、極めて高度な意識状態であり、それこそが真の瞑想的知覚である。
これは、悟り(ボーディ)とは世界の「価値の再発見」でもあるという教えにつながる。つまり、「面白くないもの」にこそ、深遠な宇宙の秩序が宿っているという感受性であり、それが私たちを「他者との分離の幻想」から解き放ち、ワンネス(oneness)=すべては一つであるという感覚へと導いていく。
多様性と平等を育む静の象徴
仏像の「動かない」という性質は、多様性の理解にもつながる。すべての人が動き回れるわけではない。動きたくない人もいるし、動けない人もいる。しかし、その存在が価値を持たないわけでは決してない。
仏像は、どんな存在であっても、ただ「そこに在ること」こそが尊いという価値観を私たちに示している。これは「健常者中心主義」「効率主義」「若さ崇拝」といった偏った価値観への強烈なアンチテーゼでもある。
終わりに──仏像という鏡
仏像は、我々の「価値観の鏡」である。私たちが「つまらない」と感じた時、それは外側の対象が退屈なのではなく、自分の内側がまだ未熟であることの反映かもしれない。
動かないもの。話さないもの。変わらないもの。
それらをどれだけ尊重し、そこからどれだけ多くを感じ取れるか──
それが、私たちの精神の成熟度を映し出すひとつのバロメーターなのかもしれない。仏像を前に、ぜひ一度、問いかけてみてほしい。
「今ここに、動かず、ただ在ることに、私はどれだけ価値を見出せるだろうか?」と。
個人的後記
仏像とは静止物で一般人にはつまらない物かもしれないが静止しているいわば止観瞑想状態でもあり全く動じない静止した状態こそ仏像の象徴する本質でもある。
そこには動的な物にのみ価値を見出してしまう欲望による煩悩への戒めがありこれは如何につまらないものに価値を見出すかという観念の重要性や多様性の理解に繋がり幸福とは何かや差別問題の理解に繋がり多様性という観点でワンネスへの導きともなる。