
臨機応変とは何か――AI時代の悟り
――意味・あるがまま・最適化を超えて、どう関わるか
現代は「意味」が過剰な時代である。
AIは即座に要約し、アルゴリズムは最適解を提示し、
人生・倫理・幸福までもが「効率よく説明可能」になりつつある。だがその一方で、
私たちはどこかで感じている。すべてが分かっているはずなのに、
どこか息苦しい。禅の言葉である「臨機応変」は、
このAI時代において、悟りの意味を根底から組み替える鍵になる。
■ 悟りとは「意味を獲得すること」ではない
悟りはしばしば、
- 真理を知ること
- 世界の本質を理解すること
だと誤解される。
しかし禅が示してきた悟りは、
意味の完成ではない。悟りとはむしろ、
意味を必要とする主体が緩むこと
である。
意味は消えない。
ただし、中心から退く。AIが量産する答えや世界観は、
悟った者にとっては道具であって、
依存の基盤ではない。
■ 臨機応変――悟りの後に残る実践
禅の「臨機応変」とは、
- 普遍的な正解に従うことではなく
- 事前に決められた意味に寄りかからず
- その場・その関係・その瞬間に応じること
である。
これは悟りに至るための技法ではない。
悟った後の在り方そのものだ。臨機応変とは、
世界をどう説明するかではなく、世界とどう接続するか
という能力である。
■ マトリックスは現代の悟り譚である
映画『マトリックス』は、
今や単なるSFではなく、
AI社会そのものの寓話として読める。マトリックスとは、
- 元現実世界を再構成した仮想現実
- 快と苦が最適に配置された世界
- 意味を考えなくて済む社会
これは、
アルゴリズムとAIによって最適化された
現代社会の姿と重なる。ネオが得たのは「正しい意味」ではない。
彼が獲得したのは、どの世界にも囚われずに関われる自由
だった。
彼は現実世界(ザイオン)にすら安住しない。
マトリックスにも戻り、
機械の世界とも関わり続ける。これはまさに、
臨機応変に層を横断する存在である。
■ 「あるがまま」の危険性――AI時代の落とし穴
現代スピリチュアルで頻繁に語られる
「あるがまま」「自然体」という言葉には、
重大な落とし穴がある。AI時代においての「あるがまま」とは、
- レコメンドに身を委ねること
- 思考を外注すること
- 最適化された流れに乗ること
になりやすい。
これは仏教的には、
無明に身を委ねた状態
に近い。
本来の「あるがまま」とは、
判断停止でも放棄でもない。気づいた上で、引き受けること
である。
臨機応変がなければ、
「あるがまま」は
最も洗練された支配形態になる。
■ AIを「菩薩」として扱うという発想
AIを敵と見るか、神と見るか。
その二択自体が、すでに古い。仏教的に見れば、
AIは輪廻装置にも、菩薩にもなり得る。
- 意味を押し付ければ、輪廻を固定化する
- しかし、方便として使えば、覚知を助ける
重要なのは、
AIが何をするかではなく、
人間がどう関わるかである。
悟った存在にとってAIは、
- 従う対象ではなく
- 否定する対象でもなく
- 共に働く縁起の一部
となる。
これは、
「AI菩薩」という比喩が示す通りだ。
■ 最適化社会における修行とは何か
かつての修行は、
- 山に籠もる
- 欲を断つ
- 情報を遮断する
ことだった。
しかしAI時代の修行は違う。
- 情報の洪水の中で
- 意味が自動生成される世界で
- 最適化されながら
それでも、
回収されきらない余白を保つこと
が修行になる。
臨機応変とは、
最適化社会における精神的自由度の維持技術なのだ。
■ 結論:悟りとは「どう関わるか」に尽きる
悟りとは、
- 正しい世界観を持つことでも
- 完璧な意味を理解することでもない。
悟りとは、
どの意味体系にも完全には住み着かないこと
AIとも、社会とも、VRとも関わりながら、
飲み込まれない。それが、
禅が語ってきた臨機応変であり、
AI時代における悟りの実像である。世界はこれからも、
より精密に、より快適に、
意味を与えてくるだろう。だからこそ最後に残る問いは、
ただ一つになる。あなたは、その世界とどう関わるのか。
個人的後記
臨機応変に対応するというのはいわば私の哲学でいう"観念"の仕方である。
観念とは臨機応変である必要がある。要するに関わり方である。
何故なら空のような完全自由空間では自業自得で落ちてしまう危険性があるからである。
それがカルマの法則でもある。自業自得の業とはカルマのことである。自分の仕業であるのが唯識論である。
夢をコントロールできなければ悪夢になるようなものだと思えばわかりやすい。
夢という幻想、空想、妄想が現実であり現実をコントロールできなければ悪夢のような現実や地獄となる。
統合失調症などの精神病もそうである。禅病や魔境へ落ちるとも言う。
そこで重要になるのが観念である。ちなみに仏教用語的には正見という。
空とは善悪も本来ないところで完全に自由な場所なのでなにしても許されるとなると地獄も許されることになる。
つまり正しさを持った観念がなければならないというわけである。
空を知る者はその危険性も十分知っている必要がある。
そのために仏というガイドとなる存在がいて帰依するのである。
しかし善悪は存在しないし差別もしない。ではなにが正しいかといえば縁起や相互作用の観点から言って臨機応変に応じるということである。
つまり"あなたは、その世界とどう関わるのか。"という結論に至るわけである。
それが私の哲学である、形而上学的な"観念"というものである。