「この世界が空(くう)である」と知るために──密教的視座からの段階的悟り
すべてを捨てること、それができれば苦労はない
「この世界は空(くう)である」。
そう聞いて、それを頭では理解できても、心の深奥からそれを実感するのは並大抵のことではありません。確かに、すべてを捨てて執着を離れ、我という錯覚を溶かし、あらゆる二元性を超越すれば、私たちは“空”そのものを直観するでしょう。
しかし、私たちが生きているこの現象世界は、五感と認識の網の目で構成されており、日々の暮らしと欲望と感情のうねりの中で、「全てを捨てる」ことは容易ではありません。
いや、もしそれが簡単にできるならば、釈尊も、龍樹も、パドマサンバヴァも、あれほどの教えを残す必要はなかったでしょう。ここに「密教」という道が現れます。
密教は“捨てきれない者”のためにある道である
密教は、すべてを一気に捨て去るのではなく、「すべてを使って悟りに至る」ための方法論です。
すなわち、五欲・煩悩・肉体・感情・知性──この世界に属するあらゆるものを“否定”せず、“転じて”悟りの道に昇華するのです。たとえば怒りはハヤグリーヴァの烈火となり、欲はヴァジュラヨーギニーの智慧の炎に変わる。
この世界に生きる私たちは、“空”を悟る前に、まず“色”を深く見なければなりません。
だからこそ密教ではマンダラが用いられ、印契があり、護摩があり、尊像があり、音と香と光と身体が総動員されるのです。
それは感覚を通して、仮の世界(顕現)から真実(空)へと至るための、非常に高度な意識変容の技法なのです。大日如来はすでにここに顕れている
大日如来は宇宙そのもの──
いや、宇宙という表現すら狭すぎるかもしれません。
宇宙以前、言語以前、時間と空間が現れる前から遍満する“絶対知性”であり、“非二元の光”です。その大日如来が、意志として、智として、慈として、形なきものとして現れ、
さらにこの現象世界すべてをその“顕現”として展開している。
つまり私たちが見ている花、風、痛み、喜び、争い、愛──これらすべてが、大日如来の無限の変容のひとつなのです。この宇宙が「ある」のは、そこに意味があるからではありません。
「大日如来が然るべきときに、然るべきように、諭している」からこそ、世界は今ここにあるのです。
だからこそ、私たちが見ている世界そのものが“教え”であり、師であり、曼荼羅なのです。空を悟るための段階──密教的ビジョン
仏教密教では、段階的な悟りのプロセスが設けられています。
そのステップは人によって異なれど、概ね以下のような道筋を辿ります:
- 色の認識(現象の肯定)
煩悩・感情・身体・世界を否定せず観る- 観想と本尊との合一(主観と客観の崩壊)
自己と尊(光明存在)の境界が曖昧になり始める- 空性の体験(言語と時間を超えた気づき)
一切が空でありながら、空が全てを生むという逆説への目覚め- 自他不二・一切遍照(大日如来として生きる)
もはや悟りを求める主体もなく、大日そのものとして生きるこのプロセスにおいて、我々は「捨てる」のではなく「統合する」のです。
分離された自己が、宇宙と再統合されるプロセスこそが、密教の悟りなのです。おわりに──この世界は教えである
この世界に意味はあるか?
密教的には、こう言えるかもしれません:「意味が“ある”というより、すべてが“意図そのもの”である」と。
あなたが出会うすべての事象が、大日如来からの諭し。
苦しみさえも、悟りへの招待。
現象世界は、悟りへの曼荼羅。だからこそ私たちは、完全に捨て去るのではなく、段階的に統合してゆく。
その道にこそ、密教の神秘があるのです。
個人的後記
この世界が空である事を知るためには全てを捨てることで可能だがそれができれば苦労はしない。
段階的に知り悟るために仏教密教の教義はある。
いわばこの世界や宇宙は大日如来そのものであり全ては大日如来の顕現であり大日如来が然るべきときに然るべきように諭している。
それがこの世界や宇宙が存在する所以だろう。
我々は実体のないものをあると妄想しているから苦しむのである。
この実体がない妄想である事を実際に体験すれば苦しみは消える。
なにもなかったのように消える、つまり空がやってくる。
体験するにはこの世界で生きて経験する事である。
簡単な例を言うと欲望は満たされると消える。つまり欲望とは実体のない妄想であったのである。