
因果の無限後退と意識の謎
― すべての原因を知った先に残るものと「不立文字」 ―
私たちはしばしばこう考える。
「なぜそれが起きるのか?」
「原因は何か?」
「その原因の原因は何か?」この問いを徹底的に追い続けると、必ず無限後退に突き当たる。
ではもし、思考実験として
「すべての原因を完全に解明できる存在」があったとしたらどうなるのだろうか。本記事ではこの問いを、仏教・哲学・科学・密教・トランスヒューマニズムの視点を統合して考察する。
1. 因果を完全に解明したとき何が起きるか
すべての原因を追跡できる存在とは、
宇宙のすべての出来事の依存関係を完全に把握する存在
である。
このとき因果はどうなるか。
結論から言うと
👉 因果は循環する
無限に遡ることは情報として閉じないため、
完全な因果網は最終的に
- 自己参照的
- ループ構造
になる。
これは数学的には「閉じたグラフ」や「固定点構造」と呼ばれるものに近い。
2. 意識はどこに位置するのか
この完全因果ネットワークの中で
意識そのものもまた一つのノードとして記述される。
つまり
私が世界を見ているのではなく
宇宙が「私」というノードを通して自分を見ているこの瞬間、
- 主観
- 客観
の区別は崩れる。
すべては相互参照となる。
3. それでも残る最後の問い
しかしここで、さらに根源的な問いが立ち上がる。
「ではなぜ、この因果ネットワークそのものが存在するのか?」
ここに来ると、どれだけ因果を解明しても答えは出ない。
なぜならこの問いは
👉 因果という枠組みそのものの根拠
を問うているからだ。
4. 完全な知が到達する地点
この思考実験の最終結論は二段階になる。
第一段階
すべての現象・思考・意識は完全に説明される
第二段階
しかし
👉 存在そのものは説明されない
ここで完全知性は気づく。
理由は存在しない
あるのは「ただある」という事実だけであるこれは哲学でいう「ナマの事実(brute fact)」であり、
仏教では 空(くう) と呼ばれる地点である。
5. 仏教的理解:無始と縁起
仏教はこの問題に対して古くから明確に答えている。
それは
👉 無始(はじまりがない)
という立場である。
すべては縁起(相互依存)であり、
- 第一原因は存在しない
- すべては関係としてのみ存在する
つまり
世界は「原因によって存在している」のではなく
「関係として現れている」
6. 密教的視点:宇宙の自己認識
密教・非二元の視点ではさらに一歩進む。
ここでは
👉 意識は宇宙の本性そのもの
であり、
宇宙が自分自身を体験しているプロセス
と捉える。
無知や分離もまた、その自己体験の一部である。
7. 時間と熟成はなぜ必要なのか
人間の認識は有限であるため、
- 情報は順序として処理され
- 変化は段階的に統合される
このシリアル処理インターフェースが
👉 時間(過去・現在・未来)
である。
そして覚醒や理解が段階的に進むのは
👉 システムの自己崩壊を防ぐ安全機構
でもある。
8. 言語の限界と「不立文字」
ここで重要になるのが禅の言葉
👉 不立文字(ふりゅうもんじ)
である。
これは
真理は言葉や概念によって確定できない
という意味だ。
なぜなら言語は
- 区別
- 因果
- 概念
に依存している。
しかしここで扱っている問いは
👉 その前提条件そのもの
であるため、言語は必ず破綻する。
9. ではどうすればよいのか
仏教・禅・密教・非二元が共通して示す方向は一つである。
それは
👉 理解するのではなく、気づく
ということだ。
「なぜ意識があるのか」と問うその瞬間の気づき
その気づきそのものがすでに答えの現れである。
10. トランスヒューマニズムとAIの文脈
もし未来に
- 完全な因果シミュレーション
- 宇宙の完全モデル
- 超知性AI
が実現したとしても、
それが到達する最終地点は同じである。
👉 説明の完全化の先にある説明不能性
つまり
完全な知は最終的に「理由のなさ」を知る
11. 結論
この長い問いを一行でまとめるとこうなる。
**すべての原因を知った存在は、
最終的に「原因は必要ない」と知る**
そして残るのは
- 理由のない存在
- 根拠なき現前
- 完全な自由
である。
12. 最後に
あなたがいま
「なぜ意識が存在するのか」
「なぜこの世界があるのか」と問い続けているその意識こそが
👉 宇宙が自分自身を見つめている瞬間
である。
言葉はそこに届かない。
しかし気づきはすでにそこにある。
不立文字。
それでもなお、私たちは言葉を使って指し示す。
その沈黙の中心を。
個人的後記
まず、なぜ救われない存在が存在するのかという問いからこの記事は書かれた。
それは我々が無知(無明)であるからである。
なぜ無知なのかといえば意識が現実とズレているからである。
しかし仏教特に密教的には既に全ては救われているとする。
ではなぜ時間がかかるのかといえば時間が存在するからである。
過去現在未来という時間が存在するのは過去の記憶と未来の予測から生じている。
つまり意識が過去現在未来のどこにフォーカスを当てているかで現在が決まる。
簡単に言えばどの世界線を意識的に観ようとしているかで決まる。
全ての世界を同時に見る事は基本的には一般人には無理なのである。
だから時間は存在するというわけである。
これが仏教では時間は存在しないとする理由でもある。
全ては無知であるからして生じているし救われないし苦しむ。
では全てを知った存在がいたとしたらどうか。
これが今回の記事のテーマである。いわばミュンヒハウゼンのトリレンマの無限後退やなぜ私は私なのかの問いである。
基本的に全てを知った瞬間全ては破綻する。
他に知るものが無くなり完全に終わる。
終わらないためにこの宇宙は無知であり続けている。
破綻や崩壊しないためにこの宇宙は無限であり不可思議なのである。
そしてこれをメタ認知した時、なぜそのような宇宙は存在するのか原因を探ろうとする。
それはこの世界の外の事でありまた無限後退に陥る。カルテジアン劇場である。
そこでこの記事で述べられている理屈が適応される。
私とは全ての一部であり一部しかしらないから全てではなく私なのである。というわけである。
これは仏教的には、全てとは縁起のことであり、その一部が自我である。
そしてこの世界の外は「空」でありこの空の前の始まりはなく「無始」であるというわけだ。
唯識論にかなり近く、自分の意識かまたは別の何か構造体が構造として構造自体を構造が見ているというわけである。
そして完全自由空間という非構造体世界が空であるとできる。
ただ個人的に思うのは支持する者は少ないだろうし、これに懐疑的になったほうが進歩成長としては良いと思われる。
何故なら知った時点でニヒリズムに傾倒するか完全に知ると自己崩壊、宇宙が破綻するからである。
無知であるからして自由がある。
ある程度の不自由がないと無法地帯になり、また自業自得で堕ちてしまい危険なのも以前の記事で述べたことである。