
習気(じっけ)と世界を形づくる心の癖
仏教には習気(じっけ)という概念があります。
これは簡単に言えば「心に染みついた癖」のことです。長い時間をかけて形成された思考の傾向、感情の反応、妄想、煩悩など。
そうしたものが心の奥に積み重なり、私たちの認識や世界の見え方を形づくっています。つまり私たちは、ただ客観的な世界を見ているのではなく、
自分の習気を通して世界を見ているのです。
習気と躾(しつけ)
「躾(しつけ)」という言葉があります。
一般的には礼儀や作法を身につける意味で使われますが、
文字を見ると「身を美しくする」と書きます。つまり、身体や行動に良い習慣を染み込ませるという意味です。
仏教的に見ると、これはとても象徴的です。
私たちの心には様々な習気があります。
怒り、恐れ、執着、妄想などです。躾とは、本来そうした心の動きや行動を整え、
美しい方向へ習慣化していくこととも言えます。
阿頼耶識と習気
大乗仏教、とくに唯識思想では
深層意識として阿頼耶識という概念が説かれます。阿頼耶識とは、
すべての経験や潜在的な心の傾向が蓄積される深い意識です。そこには過去の行為や思考の痕跡が「種子」として保存され、
それが条件によって現実の経験として現れます。その種子を生み出す要因の一つが習気です。
習気は、
- 思い込み
- 観念
- 思考の癖
- 価値観
- 心の反応パターン
といったものに近い概念です。
こうしたものが阿頼耶識に影響を与え、
私たちの経験する世界を形づくっているのです。
理解するだけでは意味がない
ただし、この仕組みは頭で知るだけでは意味がありません。
「なるほど、そういうものか」で終わってしまうからです。
仏教で重要なのは
体験的に気づくことです。そのために必要になるのが瞑想です。
瞑想によって、自分の思考や感情がどのように生まれ、
どのように消えていくのかを直接観察します。そうすると、
自分の習気がどのように世界を作っているかが
体感として見えてくるようになります。
瞑想と思考は対立しない
とはいえ、思考が不要というわけではありません。
瞑想(体感)と思考は、むしろ補完関係にあります。
例えるなら、
- 瞑想は「無音」
- 思考は「メロディー」
のようなものです。
無音がなければメロディーは成立しません。
しかしメロディーがあるからこそ無音も際立ちます。つまり両方があって初めて音楽が成立します。
色即是空 空即是色
この関係は、
般若心経にある有名な言葉にも通じます。色即是空
空即是色形あるものは空であり、
空はそのまま形として現れている。これは単なる哲学的な言葉ではなく、
体験として理解されるものです。思考と体験、
現象と空、
静けさと動き。それらは対立しているのではなく、
互いに支え合って存在しています。
習気を観るということ
もし自分の習気に気づき、それを観察できるようになると、
世界の見え方は大きく変わります。なぜなら、
私たちが苦しんでいる多くの原因は
外の世界ではなく自分の習気だからです。習気に気づくこと。
そしてそれを整えること。それは、
世界そのものの見え方を変えていく作業でもあります。瞑想とは、
そのプロセスを静かに観察するための方法なのです。
個人的後記
習気(じっけ)。
しつけの語源だ。
これは元々何かというと精神の癖みたいなものである。
その人に染み付いた煩悩とか妄想とか諸々の事だ。
それがこの世界を決定づけているのである。
身体に染み付くということから躾に変化した。
漢字の通り美しくするというのがポイントである。
身体に染み付いた煩悩を美しく観念する。
これが大事なわけだ。
そうすれば全ての妄想世界は美しくなる。
阿頼耶識という深い無意識の精神の潜在意識がこの世界を全て生み出してるわけだがこの阿頼耶識はなぜそんなものを生み出すかというと習気が正体である。
習気は、
思い込みとも言い換えられる。
観念とも言い換えられる。
考え方とも言い換えられる。
そしてもっと仏教で大事なのはそれを体感的に気づくことである。
これを頭で知るだけでは難しいしそうですかで終わるので意味ないのである。
思考だけではだめなので瞑想が必要になるというわけだ。
ただ思考は不要ではない。
瞑想(体感)と思考はセットだ。
例えば無音が空という瞑想の体感だとすれば、思考はそこに乗るメロディー。
無音がなければメロディーは存在できない。
メロディーがなければ無音も存在できない。
というわけで両方あって成り立つわけだ。
これが般若心経の色即是空空即是色の一部である。