ポジティブに考えればポジティブにネガティブに考えればネガティブになるという簡単な事が事情によってわからなくしている迷い【仏教入門・仏教密教・哲学・スピリチュアル・観念・煩悩・瞑想】

2025/01/24


ポジティブに考えればポジティブになる。
ネガティブに考えればネガティブになる。
我々はそんなあたりまえの簡単でシンプルな事実が、何らかの理由や事情によってわからなくしている事が多々ある。
それが迷いであり煩悩である。
この理由や事情とはどこから生じてくるかと言えば妄想からである。
この世界は全て自分の妄想である。
何故なら我々は自分の脳が判断して生じたものを感じ取っているだけであり、どこまで科学的に知ってもそれは自分の認知体験でしかなく本当の現実世界を見れないからである。
詳しくは唯識論の記事を参考していただきたい。
しかし妄想は観念が可能になる。
観念的にポジティブになれば元気になるしなんとでもなるのである。
良い妄想を抱けば良くなるというわけである。
妄想の世界であるからして妄想でなんとでもなるというのが密教のコアな部分である。
妄想という観念によって良くなるという意味から、観念する、諦めるの意味になったと思われる。
ではなぜ簡単に観念できず妄想が変化しないのかというと阿頼耶識という無意識が関係している。
阿頼耶識については別記事を参考していただきたい。

意識と認知は違うものである【仏教入門・仏教密教・哲学・スピリチュアル・無常・無我・瞑想・悟り・空・涅槃・阿摩羅識・無垢・あるがまま・真如】

2025/01/24


意識とは我々が何か想ったり考えたりするものである。
自分が自分であることを意識することで意識また自我が生じる。
しかしこの意識がない無我の状態になれば認知のみになる。
いわば感じるのみになるのだが、認知とは実際は感じる事もない知ると言う事のみである。
知る事を認めると書く。
悟りで得られる知恵の知とは知るという体験なのかもしれない。
それはこの世界が無常であり空である事を知るという体験であり、この知った知恵(智慧)は実質的に空や無情と同じであると言える。
智慧とは真理を知ることである。
つまり知ったことをありのまま認める事である。
十二縁起でいえば、
無明(無知)




となるが無知の部分まで戻って知るとすれば無知は解決するという事がこの記事の重要なテーマである。

何も考えられない時は自由であり、何か考えられる限りは自由である【哲学・スピリチュアル・仏教密教・無我・無常・瞑想・論理学】

2025/01/24


我々が何か考えられるという事はどうにでも考えられるという状態であることを現している。
つまり本質的には観念によりどうにでもなる自由な状態なのである。
しかし無知という迷いによって妄想が生じ煩悩が生じて苦しんでいる悩んでいるのである。
この状態が迷いであり正しく考えられない状態だったとしてもそれを受け入れ考えられない状態もまた自由である。
考えない事は何も悩みがない自由な状態である。
無知であるからして自由であり、無知であるからして妄想し、妄想できるからして自由である。
そうでないからしてそうであり、そうであるからしてそうでない。
言わんとするところ自由故の自業自得即ちカルマの事である。