私は高校生の頃よく生きる意味とは何かを考えていた。
授業で出す作文のネタにまでしたのだが、その時の最終的に導き出された結論は「生きるために生きる」であった。
今考えると甘い考えだと思う。循環論法という無限ループになる。我思う、ゆえに我ありに近い気もする。
何のために生きるのか意味が結局書かれていないしわかっていないのだ。
生きるという本能的なものに従うし今生きているから生きる意味は生きる事という事かもしれない。
今改めて生きる意味を考え結論を言うと「何かのために生きる」という事になる。
これも結局何のために生きるのか生きる意味が書かれていないのだが、実はそれには理由があって、
生きる意味は人それぞれ違うから人それぞれの意味を何かの所に当てはめてほしいということだ。
自分の好きな事は未練が何かあれば見つけることが出来て、それが生きる意味になるのだ。
自分の好きなことをするために生きるという事である。それが生きる意味である。
しかしその未練がなく、また好きなものがなく生きる意味が見いだせないとかない人もいるのだ。私も時々そのひとりでもあり憂鬱になったり虚しくなったりする。酷い時は鬱病のようになりずっと吐き気がする程でもあった。
ネガティブになると価値観が変わり、全てが無意味に見えたり駄目に見えたりするのだ。そして生きる意味を見いだせなくなる。
何か未練が残っていればそこから好きな事をするために生きるという目標が立てられる。
好きなことをするために生きるという生きる意味ができあがるのだ。
しかし現実は退屈な人生であり不幸な事もあり辛く苦しいものであり、未練どころか何も面白いことがないというか思いつかなくて生きる意味を見いだせないのだ。
不幸である事を実感する方が多いとネガティブなので生きる意味を見いだせなくなる。
幸福である事を実感すれば生きる意味を見出しやすくなる。
では如何にして幸福である事を多く実感すれば良いのか。
ポジティブになる方法は自分の好きな事だけ考えることだ。
この現実をどう見るかで全てが決まるのである。
しかしそれができないから難しいものだ。
不幸な人生という現実に負けてしまうのだ。
この現実をどう見るかで変わってくる。
それは価値観によって決まる。
自分の思想によって決まってくるのである。
これはこういう意味があるとか、これは意味がないとか決める事が思想である。
思考停止しているとこれができなくなり意味を見いだせなくなる。
思考停止は無になる事ができて煩悩が無くなり悩みも無くなり仏教の禅にも近いものがあるので良いのだが、
人生では思考しなければならない時が多いので思考停止し続けるとかそういうわけにはいかない。
何も考えないでいると何もすることがなく寝たきりみたいな状態なのでそのうち餓死で死ぬからである。
思考停止せずに、これにはこういう大事な意味があり幸福のためにあるのだという事を悟れば生きる意味も見いだせるようになるのだ。
価値観がそこで変わってきて世界が幸福のためにあるような感じになってくるのである。
そこで生きがいを感じるようになるだろう。
しかし実際の所今の私にはあまり意味がない。
好きなことをしていても何故か虚しいのだ。
この程度かと思ってしまう時がある。超貪欲なのかもしれない。医者には刺激を求めすぎだというような事を言われた事がある。
貪欲は煩悩になるのだ。
自分の理想が高いほど現実とのギャップに悩まされる。
しかし超苦痛な現実を受け止めろと言われてもそれはおかしな話である。
我々は理想が高く現実に不満があるからどうにかするため進歩してきたのだ。
些細なことに幸福を見出すと良いと言われたが貧乏症のようでそれは納得できない。
私の場合は、現代では面白いものがなく生き甲斐がなく生きる意味を見いだせないタイプである。
未来にはあるかもしれない。快楽三昧の可能性が高い。
好きなことを除けば、生きたいわけでもないのに生きなければならない。
自分の好きなことは実現しにくい。
しかし自分の好きな事という微かに未練が残っているのを瞬間的に感じる時がある。
インナーチャイルドや潜在意識が未練を残しているような気もする。
本能的に幸福や快楽を求めている瞬間があるのだ。
その本能の欲望を満たすために今私は生きていると思うのだ。
そういうものをうまくこれから増やしていきたいと思う。
というか未練というのは増えて良いものだろうか。
本能的な欲望を満たす事に違和感がある。
もっと我々は知的であるべきという洗脳をされているのだろうか。
本能的な欲望を満たすことは別に問題はない。
食欲を満たすことは問題ない。生きるために必要である。
しかし仏教的には欲望は煩悩を生み出す。
欲望がなければ求めることも無くなり何も無くなり無になれるのだ。
私が思うには究極的には食べなくても生きられるようになるべきだという思想がある。
そうすれば食糧不足で苦しむ事にもならないし苦しんで働かなくてもとりあえず生きていけるからだ。
断食の達人になりたいとは思うがそれには大変な苦痛を伴う。
成功すれば良いのだが殆ど拒食症なので骨と皮だけになり餓死するだけになるかもしれない。
数十年飲まず食わずの仙人や瞑想の達人がインドあたりにいるらしいが、
瞑想や精神コントロールや太陽光だけで生きる事は可能だろうか。
これらが可能な者は限られているかもしれないし習得するまでに大変な苦痛を伴うかもしれない。
これらが簡単にできるようなら餓死者はいないはずである。
つまり難しい。
骨と皮だけになり餓死する可能性が高い。
他のナノマシンやバイオテクノロジー等で実現できれば良いのだがいつになるだろうか…。
また食欲を無くすということは味覚を楽しめなくなる事にも繋がる。
しかし食欲は無くす事ができるが味覚は楽しめるという事は可能だと思う。
ただし価値観は変わってくる。
また飽きもある。
快楽を求めると、どんどん刺激的になってきて度し難くなってくる場合がある。
快楽の無限ループがうまく実現できれば良い。
我々はうまくそれを実現しながら生きればよいのだ。
追記
何か真理的な生きる意味とか宇宙の意味とかそういうのは不明である。
あったとしても自分の好きなことではないのなら意味が無いと感じるかもしれない。
この世界・宇宙はどこへ向かっているのかという哲学的問題 – higajou cafe
追記
幸福であるなんて余裕がない時は言ってられない。
私は今幸福であると言っても上には上がある。
上から見れば下は地獄である。
つまり幸福ではない。
幸福だと思いこんでいるのだ。
そこをうまく利用すれば幸福だと思い続けることが出来る。
コメントを残す