「人生は瞑想である」——身口意、大日如来、そして悟りへの日常修行
人生とは、早かれ遅かれゴール=悟りにたどり着く旅路である。しかしそのゴールに向かう道こそが、実はもっとも神聖な瞑想そのものであり、修行であるということを私たちは忘れがちだ。禅も密教も、そして日常生活も、実は「悟りへの連続的な道」として輝いている。この記事では、禅、身口意、大日如来の観点から、人生を生きるという行為自体がなぜ瞑想であり修行なのかを考察していく。
■ 人生のゴールはすでに定められている?
人生には様々な分岐があるように見えて、実は誰しもが「終わり」へと向かっている。この終わりとは単なる死ではなく、「自己超越」や「悟り」でもある。仏教では、輪廻の終焉が涅槃であるように、「行き着くべき場所」は魂の深層に刻まれている。そして密教では、それを最終的に「成仏」と呼ぶ。
しかし重要なのは、「ゴールが定められている」ということではなく、「そのゴールに至るまでの歩み方」こそが修行であり、瞑想であるということだ。
■ 生きること自体が瞑想である
私たちは瞑想を座禅やヨガの中に限定して考えてしまいがちだが、禅の根本的な思想は違う。
「箒を掃くことも、野菜を切ることも、トイレを掃除することも修行である」
これは、白隠禅師や道元禅師も説いていた日常即仏道の思想である。つまり、生きているということ自体が、仏に向かうための瞑想行為であり、意識的に在ること、それこそが「禅」であり「瞑想」である。道を歩くとき、呼吸をするとき、誰かと話すとき、そこに意識が同伴していれば、それは立派な瞑想である。
■ 身・口・意の三業と整えること
仏教、特に密教では「身・口・意」(しん・く・い)という三つの行動レベルが重視される。
- 身(身体):動作、姿勢、行動
- 口(言葉):発する言葉、音
- 意(意識):心、思考、想念
この三つが調和している状態こそが「修行が実っている状態」であり、「如来の顕現」であると考えられる。つまり、「ちゃんとする」という日常の姿勢や丁寧な所作が、そのまま心の清らかさにつながり、ひいては仏性を顕すのである。
この思想は、チベット密教における「サマヤ(誓約)」にも通じ、外面的な所作やマントラ、内的な観想のすべてが一体となるとき、大日如来の本質が我々に宿るとされている。
■ 大日如来はあなたのすべての行動に宿る
大日如来(マハーヴァイローチャナ)は、密教において「宇宙そのものの智慧と光」を象徴する存在であり、あらゆる存在の根源的原理だ。仏典『大日経』では、「自己の内に仏を見る」ことが重要視され、すべての行い(身口意)は大日如来の顕現であるとされる。
つまり、料理を作る手、語る声、心の内なる念いまでもが、すべて大日如来の表現であり、私たちは常に悟りのプロセスの中にいるということになる。
■ 結論:日常こそが最高の修行の場である
悟りに至るために、特別な環境や技法が必要なわけではない。必要なのは、日常を仏道として受け入れ、身口意を整えることによって、すべての瞬間を「聖なる時間」に変える視点である。
「人生とは早かれ遅かれゴールにたどり着く」
だからこそ、その過程のすべてを「瞑想」として生きることで、私たちはすでに悟りへと向かう真の道を歩んでいるのだ。
個人的後記
生きるだけで瞑想である。
基本的に始まりがあるものには終わり(ゴール)がある。
それはこの生きている瞬間瞬間でもある。
1分の間に起きた事は始まりとゴールである。
それは観念によって決まる。
つまり観念という意識によってゴールかどうか超越するかどうか成功するかどうか、全てが決まるのである。
唯識から言ってこの世界は全て妄想である。
だからこそ妄想の世界を妄想という観念で変容させられる可能性がある。
妄想だが現実。現実だが妄想。
現実が妄想かどうかも観念によって決まる。
観念次第では夢が現実で現実が夢と捉えることもできる。
時間の方向も観念によって変わる。
進んでいると思い込んでいるのである。
これは構造によって決まってくる。
構造とは観念の仕方の事である。