「構造を超えて生きるということ」
私たちが「世界」や「現実」だと思っているものは、ほんとうに現実なのでしょうか?
実のところ、私たちが見ている世界は、“構造”という枠組みの中で限定されているものにすぎないのかもしれません。◉ 構造とはなにか?
この宇宙も、肉体も、社会も、思考も、すべてが構造のある構造体です。
構造にはパターンがあり、秩序があり、制約がある。たとえば:
- 言語には文法があり
- 音楽には調性があり
- 身体には神経系の構造があり
- 心には欲求や認知バイアスの構造があります
それらはすべて、ある“構造”に従って現れているものです。
⚫ 構造があるということは、自由ではないということでもある。
たとえ自由に感じていても、その自由もまた「構造の範囲内」で許された自由でしかない。
この気づきは、仏教における「空(śūnyatā)」や「縁起」の理解にも深く繋がってきます。
◉ 私たちは“構造の眼”でしか世界を見ていない
人間は目で世界を見ているようで、実は 「眼の構造」から逃れられない。
- 網膜の光受容体が感知できるのは可視光線だけ
- 視神経の伝達も神経構造に制約され
- 脳の視覚野で処理されたあとに、初めて「見えた」と認識される
つまり、人間が見ているのは「現実そのもの」ではなく、眼と脳という構造体が“翻訳”したデータの産物なのです。
たとえカメラで撮影したとしても:
- カメラセンサーの感知範囲と設計に制約され
- 画像処理アプリはアルゴリズム(構造)に従って色調を補正し
- それを再び人間が見るにはディスプレイと眼の構造を通す
ここでもまた「構造の中の構造」を見ているだけなのです。
◉ 超越可能か? ─ ゲーデル・密教・DMT体験から考える
論理学者ゲーデルの不完全性定理では、
「任意の公理体系(構造)の内部では、その体系のすべての真理を記述できない」ことが示されました。これは哲学的に言えば:
「構造内にいる限り、その構造を完全に理解することはできない」
→ 構造を超えるには、構造の“外”に出る必要がある。このアプローチは、仏教密教の観想と空性の智慧とも共鳴します。曼荼羅は一つの宇宙の構造を象徴しますが、行者は最終的にそれすらも「空」と見抜いて、超えていく。
また、DMTや深い瞑想・臨死体験では、視覚・言語・時間が崩壊し、「ただ在るだけ」の次元を体験することがあります。
🔸そこでは、構造そのものが解体され、「言葉も形もないリアリティ」が立ち現れる。
◉ それでもまた次の構造が現れる
たとえ人間の意識や知覚の構造を超えたとしても、その先にはまた別の「高次構造」が存在するかもしれません。
- 三次元を超えて四次元、五次元へ
- 心理構造を超えて霊的構造へ
- 物質を超えてクオリアの構造へ
いわば「構造のマトリョーシカ」。
構造を超えるたびに、次の構造が現れる──それは終わりなき旅かもしれません。
◉ 完全な自由はありうるか?
完全な構造の外──制約のない「絶対自由な世界」は存在しうるのか?
答えは、YESでもあり、NOでもあるでしょう。
- NOの立場:構造を超えれば次の構造がある。つまり「完全な自由」は幻想にすぎない。
- YESの立場:それでも、「構造から解き放たれた瞬間」は存在する(悟り、空、非二元意識、無分別智)
◉ 終わりに:あるがままに“見る”という完成形
もしも構造の超越が完全には不可能ならば──
私たちに残された道は、「構造を受け入れ、それとともに在る」ことかもしれません。あるがままに見る。
判断せず、意味付けせず、ただ見る。
禅の教えにある「無心」「空観」が、それです。これは逃避でも妥協でもなく、構造の中にあって構造を手放す、最も高度な自由の形。
「身心脱落」「即心是仏」という禅語も、まさにこの状態を示しています。
◉ 結語:構造を超えるとは、「構造を悟る」ことである
私たちは常に何らかの構造に包まれています。
身体も、言語も、文化も、世界そのものも。
けれど、その構造を意識化し、構造に支配されず、構造と遊べるようになるとき──そこに「ほんとうの自由」が顔をのぞかせるのかもしれません。
個人的後記
人間が見るものはすべて眼を通しているので眼の構造に制約されたものを見ている。
カメラで撮ったとしてもカメラの構造内で撮られたものであり撮った写真を見るアプリもプログラムでチューニングされたものでありプログラムの構造に制約されたものを見ている。
加工ソフトもそうであるし機材も全てそうである。
我々は囚われた世界で生きている。真実を知らされずに。
真の現実は見えていないしこの人間の眼や脳処理から超越したとしてもさらにまた高次元の構造に制約されるだろう。
構造の制約を超えるには構造自体を超越しなければならない。
それが不可能である場合あるがままや禅などで観念的になるのが完成形かもしれない。
可能な場合は完全自由空間の自由な世界がそこには存在するだろう。