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精神にはレベルがあって、本能的なものがレベルが低く知能的なものがレベルが高いらしい。
ここで私が疑問に思うのはレベルを決めている基準とは何かである。
社会性なのかそれとも自分の自由を優先する事なのか。
本能的で攻撃的、利己的、恣意的な精神は自分の自由を優先している。
これらを否定する場合、社会性を優先していることになる。
自分の自由を優先することがレベルが低い精神という事は社会性を基準に考えていることになると思われる。
社会があることで自分の自由を他人と協力することで実現できたりする。
自分一人では叶えられないような事が社会があることで叶えられるようになる場合があるのである。
しかし自分一人で自由を叶えられる場合はどうだろうか。
反社会的になり攻撃的になり自分の思い通りの世界にすることがその者にとっての自由であり幸福である場合、
他人の事は関係なく社会の存在は無意味なのである。
そうした場合精神のレベルとは何なのかよくわからなくなる。
その者にとったら攻撃的で社会を潰すような事がレベルが高い精神であり、その者にとったらそれが幸福であるから問題ないのだ。
つまり真理的に精神にレベルなど存在するのだろうかという事である。
物質や肉体に依存することはレベルが低いとよく言われる。
精神が本質であり現実界の物資や肉体にだけ集中していてもダメだというのである。
しかし精神もこの世界の構造体の一部であるから精神も物質的なものだと思う。
精神体も構造があり物理的に動いているはずである。構造のないものはこの世界に存在できないはずである。
精神を無視する事がいけないのは要するに全ての構造をコントロールすることが望ましいということだろう。
脳を物理的に操作することで精神に影響を与える事ができるが、
脳や肉体だけコントロールしていても精神がダメになるということである。
精神は自分だけでコントロールしようと思えばできる。しかしこれが結構難しいのである。
観念することでコントロールが可能になるのだが修行して訓練しなければコントロールすることが出来ない。
精神薬や脳科学など物質に頼って精神をコントロールする方法と、自分の観念で精神をコントロールする方法、
どちらが良いかといえばどちらも駆使した方が良いと思う。
片方だけではコントロールできなくなる場合があるからである。
現実界の物質界が消滅すれば精神世界のみになると思われる。
しかし物質と精神が分離しているのかはよくわからない。
物質が消滅すれば精神も消滅する可能性もある。
その場合霊や霊界や精神世界は存在しなくなる。
つまり霊は物質的な脳が作り出した産物であり脳内に存在するという事である。
もし精神と物質は分離していて、精神だけになった時、肉体や物質だけコントロールしていた場合困るだろう。
全てをコントロールした方が良いという事は全てを受け入れて分析しなければならない。
ここでスピリチュアルでよく言われる愛とか受容が求められる。
現実世界は思い通りにならなくて厳しい所である。
つまり自由を実現しにくいのである。
自分の自由を実現するには受容的になり分析し、全てをコントロールする方法を学ぶ必要があるのである。
コントロール可能になったその後、何をするかはその者の自由である。
社会を潰して人類を滅亡させる可能性もあるし、社会を築き人類を幸福にしてくれる可能性もある。
自分一人で自由を実現可能になれば前者、自分一人で実現不可能だと気づけば後者。
観念する事で全てが変化する可能性はある。
精神だけ鍛えて世界を自分の思い通りに変化させる事が可能になる。
その時物質は無意味になる。
精神をコントロールしていると思うが、精神のコントロールによって脳が物理的に変化していて精神に影響を与えているのかもしれない。
物質と精神は合体しているのかもしれない。
そこがまだよくわからないのだが、とりあえず両方カバーしておいたほうが良いのは確かだろう。
片方だけ鍛えても後で困るかもしれない。
ところで真理的に精神にレベルなど存在するのだろうか。
ある程度で満足するような精神の場合、そこがその者にとって最上であるが、他の者にとったらまだ上がある。
レベルが高い者が他人と比べて見下しレベルが低いとするのだ。
レベルの低いと言われる幸福はレベルが低かった頃なら最上であったはずだ。
自分のレベルが上がることで下が生まれる。
観念次第で何がレベルが高いか低いか決まるのである。
精神が拡張可能であるならば幸福追求は無限に続くだろう。
レベルが低いものでも後から楽しめる場合がある。
そして上とか下とかは勝手に決めつけているだけで本来生命が産まれる前は善悪は存在しない。
自然の動きに人間が善悪を決めている。
自然の意思が神の意思であるなら、我々は神の意思によって善悪を決めさせられている事になる。
神はいないのなら自然の動きでしかないが、そこに価値を見出した場合我々は幸福を求めることが出来る。
しかし囚われた場合不幸になる。それは煩悩として悩ます。
煩悩は進歩するためには必要だ。苦労することで学習して幸福や自由を実現できるようになる。
果たしてそうだろうか。
楽して学習して自由を実現できればその方が理想である。
しかし幸福があるから不幸があり不幸があるから幸福がある。
進歩のためにはリスクを伴う。
果たしてそうだろうか。
自分と似た考え方をしている人間が多くいるから社会がある程度成り立っているが、
考え方が多様化すると様々な善悪の基準が生じ何が善悪なのかわからなくなるだろう。
その者にとったら善でも他の者にとったら悪になる。
多様化は自由を実現する。自由とはなんでもありだ。
自由な世界は犯罪も許されるし許されない。
ここでいう自由な世界とは無法地帯でやりたい放題な世界のことだ。
と、ここまで書いといて他のことをやっていたら思考停止したので終了する。
ちなみに自分で書いといてあれだが、全てをコントロールするには全てを受け入れなければならないのは少し疑問である。
もっと簡単にコントロールする方法があるかもしれない。
追記
今見ると意味不明なので簡単にまとめておく。
観念次第でなにがしたいか決まって、それが自分ひとりで実現可能で反社会的な内容なら社会に迷惑をかける危険性があり、社会的な内容なら社会を良くしてくれる。自分ひとりで実現不可能だとわかった場合、社会の仲間入りをすることになる。
そして多様化は自由を生むが、善悪が多様化してなにが善悪なのかわからなくなる。
多様化をうまくコントロールして社会を築き上げる必要がある。
自分の理想を実現できるかどうかが精神レベルの高さ低さを決めるということになる。
実現が難しいことが実現可能ならレベルが高く、実現不可能ならレベルが低い。
社会の場合は自分の理想の所が社会の理想に変わる。
自分の理想を実現するために社会が必要なら社会の理想も実現しないといけなくなる。
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