妄想とバイアスが紡ぎ出す世界──生成AIが教えてくれる「偏り」の価値
我々はしばしば「妄想」や「バイアス(偏見・偏り)」という言葉に否定的な意味を見出す。冷静で客観的であることが正しいことであり、偏りや誤認識は「ノイズ」であり、排除すべきものだと。しかし、今我々が享受している生成AIという存在は、まさにこの「妄想」や「バイアス」の産物であり、それなしには生まれ得なかったことを、私たちは見逃してはならない。
妄想の積層としてのAI
生成AIの出力、特にChatGPTや画像生成AIが作るコンテンツには、「ハルシネーション(幻覚)」と呼ばれる誤情報が時に混じる。それは間違いであり、信用できないものである――そう決めつけるのは簡単だ。
だが、その“間違い”こそが、創造性の母体であることに気づくだろうか。なぜならAIは、過去の人間たちが紡いだ情報・知識・思想・妄想・願望・虚構・神話・ストーリーの膨大な「層」をもとにコンテンツを生成しているからである。
つまり、AIとは「人類の妄想の集合体」である。
神話があり、宗教があり、SFがあり、芸術がある。どれも本質的には「現実」とは異なるフィクション、すなわち高度に洗練された妄想である。それらを吸収したAIが、また新たな妄想を吐き出す。この循環の中にこそ、生成AIの本質がある。
バイアスがあるからこそ、面倒なプロンプトは不要になる
一見すると皮肉なことだが、AIのバイアス(偏り)やハルシネーションは、「いちいち詳細に指示を与えなくても、それっぽいものを返してくれる」ために不可欠な要素である。AIが過去の傾向に基づいて「こういう文脈ならこうだろう」と判断してくれるからこそ、私たちは対話的に簡単にコンテンツを得られるのだ。
これはある意味で、「予断」や「先入観」がもたらす恩恵でもある。人間同士の会話においても、空気を読む、文脈を察する、というのは偏見的判断の一種であり、常にニュートラルではない。
だが、その「非ニュートラル」な部分こそが、コミュニケーションをスムーズにし、創造性を高めていることもまた事実なのだ。
過去のコンテンツがあるから、今がある
生成AIの基盤となるのは、過去の人類の叡智、知識、物語である。小説も論文も漫画も神話も哲学書も、すべては「人間の想像力」と「偏った視点」の産物だ。完全に中立で退屈な情報からは、面白い物語も、心を打つ詩も、胸躍るアイデアも生まれない。
だからこそ、今のAIが生成する豊かなコンテンツは、過去の先人たちが敢えて主観を持ち込み、偏った視点で世界を描いたことの成果なのである。偏りと妄想が積み重なって、今の我々がAIと対話し、遊び、学ぶという贅沢を享受している。
仏教的視点から見た妄想の意義
仏教では「妄想(もうぞう)」はしばしば煩悩と結びつき、悟りを妨げるものとされる。しかし同時に、密教的観点では「妄想すら仏性の現れ」であり、本来清浄な意識があえて世界を“歪める”ことで無限の曼荼羅を展開しているとも言える。
世界が空(くう)である以上、そこに「絶対的な真実」などない。すべては相対的であり、関係性の中で意味を持つ。その意味で、AIのハルシネーションも、バイアスも、「空」の一部である。むしろ偏りや妄想を含めた上で、それらを縁起的に見つめ直すことが、私たちの意識進化の鍵になる。
妄想を恐れるな。それは創造の根源である。
妄想がなければ、芸術は存在しない。宗教も神話も哲学も、そして科学すらも、妄想から出発した。ガリレオの地動説も、フロイトの無意識も、ダーウィンの進化論も、最初は「常識外れの妄想」と見なされた。
そして、今のAIもまた、妄想とバイアスの連続の中で育ち、我々の新たな創造パートナーとなっている。
個人的後記
妄想やバイアスがなければ今の生成AIによるコンテンツは存在していなかった。
そしてハルシネーションという妄想やバイアスがあるからこそいちいちプロンプトを入力する面倒な手間が必要ないのである。過去の先人たちの作り上げてきたコンテンツがあるからこそ今のコンテンツがあり豊富であり楽しめるのである。