神は存在するのか?その全ては観念によって決まる【AI解説・哲学・スピリチュアル・仏教密教・非二元論・アドヴァイタ・瞑想・ヨガ・超越意識・高次元・ワンネス・縁起・無常・空観・中観・中道・中庸・阿頼耶識・唯識論・絶対神・宗教】

2025/09/11

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私たちが理性で論理的に考えるとき、「神は存在するのか」「存在しないのか」という問いもまた、自分自身の判断に委ねられます。つまり、神が「いる」と結論づけるのも、「いない」と結論づけるのも、自分の思考の枠組みによって決まってしまうのです。ある意味では、私たちの判断こそが神の有無を「決定」してしまっているとも言えるでしょう。

宗教についても同じことが言えます。どの宗教にも素晴らしい部分があれば、問題をはらんだ側面もあります。しかしその評価は絶対的なものではなく、あくまで個々人の観念や価値観に基づいた「見方」にすぎません。ある人にとっては救いとなる教えが、別の人にとっては束縛に感じられることもある。つまり、宗教そのものの「良し悪し」ではなく、それをどう捉えるかという意識が、評価を形づくっているのです。

ここで重要になるのが「観念」です。私たちの現実体験は、観念によって色づけられ、方向づけられています。仏教の唯識論では「万法唯識」、つまりすべては心のはたらきによって形成されると説かれますが、この唯識そのものもまた、「そうである」と思う観念によって受け取られるものです。もし「そうではない」と思えば、それもまた一つの観念の表れです。観念の中に閉じ込められている限り、絶対的な基盤はどこにもなく、すべては流動的で相対的だと言えるでしょう。

では、この観念の枠を超えるにはどうすればよいのでしょうか。その一つの方法が「瞑想」です。瞑想によって言葉や論理、固定化された観念を一時的に手放すとき、私たちはより直接的な体験に触れることができます。それは神や真理と呼ばれるものであるかもしれませんし、単に「空」の感覚であるかもしれません。いずれにせよ、それは論理的な思考の延長線上では到達できない次元の体験です。

しかし、そうした超越的な探求も大切である一方で、現世における私たちの生き方こそが、まず問われるべき課題です。宗教の教えを「絶対」として盲信するのではなく、様々な宗教の智慧を参考にしながら、自分なりにより良い生を築いていく。その柔軟な姿勢こそが、現代において最も実践的な宗教的態度なのかもしれません。

結局のところ、神の有無や絶対的真理の所在は、私たちの観念の中で決まります。しかしその観念に縛られず、柔らかに生きることこそが、宗教や哲学の本来の価値を引き出す鍵なのではないでしょうか。

 

個人的後記

理性で論理的に思考して判断しているうちは神がいるかいないかも自分で判断することになる。
つまり自分の判断によって神がいるかいないかが決まってくるのである。
全ての宗教は良いところもあれば悪いところもある。
しかし究極言って自分の判断によってそれらのバイアスや良いところも悪いところも変化してくる。
なにか絶対的なものというのは自分の決めつけでしかなく「観念」によってすべては決まってくるのである。
そして観念によってすべては形成されるというのは唯識論と関係してくるが、この唯識論も観念によってそうであるかそうでないかが決まるのである。
これらを超越したければ瞑想するか何らかの方法が必要になってくるだろう。
そんなことよりも現世を様々な宗教を参考にしてより良く生きる事のほうが先決かもしれない。

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