幸福や不幸、苦しみやストレスとは何か?徳を積む事とカルマの法則、観念と瞑想の重要性についての法話【仏教入門・哲学・スピリチュアル・仏教密教・瞑想・ヨガ・因果応報・中観・中道・中庸・ワンネス・縁起・無常・空観・あるがまま・禅・涅槃・ニルヴァーナ・無分別智・差別・分別・非二元論】

2025/09/12

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苦しみや不幸、つまり煩悩とはカルマによるものである。
カルマとは自分のした行いのことでもある。
カルマの法則(因果応報・縁起の教え)からすれば悪いことをするから悪いことが返ってくる。
良いことをすれば良いことが返ってくる。
縁起とは全てが縁で繋がっており、全てが相互作用して影響を与えているし与えられていることである。
なにかすればなにか返ってくる。アクションとリアクションの関係にある。
つまりカルマを良くするには徳を積んだり善い行いをすることで良くなっていくわけである。
そのためには自我(エゴ)をまず弱めて自分が今しようとしていることしたことが良いことなのか悪いことなのかをしっかり判断できるようになることである。
つまり懺悔(kṣama(クシャマ))でもある。
この自我を弱めるには観念する、また無我になる必要がある。全てを受け入れ冷静に観る。つまり冷静に判断できるようにする。
そのためには瞑想や修行が必要である。
どうしてもエゴが邪魔をしてなかなか一般人には難しいのである。
しかしながら人生とは修行であり瞑想でもある。
仏教では差別や分別をしない。
幸福があるから不幸があり不幸があるから幸福がある。
苦しいことの後にはその分楽しいことが何倍にもなって楽しめるものである。
逆に楽しみすぎれば甘えてしまい苦しみも何倍にもなって返ってくる。
これをグルグル繰り返してそこに楽をする家電やスマホやAIが重なり悪循環になったりするのが現代社会や科学文明である。
しかしながら輪廻転生を繰り返していつかは悟れる日が来るだろう。
過度な修行・苦行や逆に楽をすること、また過度な瞑想は逆効果であり、やはり適度なバランスを維持しながら瞑想や修行、過去や未来に執着して囚われる事のないように今この瞬間を生きることが大切なのである。
このバランスが科学文明の急速な発達によりバランスを崩し始めているのも要因の一つであろう。
だからこそ物質にだけ依存しないで精神性も高めるために観念が重要であり瞑想が重要になってくるのである。
我々の煩悩は意識の識別による差別・分別・二元論(善と悪、男と女、+と-、有と無など)の言語的論理的思考によるものであり、例えれば左脳が理性で思考であり、右脳が瞑想など感覚的直観的なものであり、右脳を活性化させるのが瞑想とも言える。
しかし左脳も必要不可欠であり左脳による智慧で右脳活性化や瞑想のサポートが可能になる。
つまり左脳と右脳のバランスが大切であり何事もバランスが適度であることが重要である。
しかしながら仏教では差別も分別もしない。
つまり肯定も否定もしない。
修行をすることは現状を否定する事でもある。
仏教ではこれさえも肯定も否定もしない。
つまりこれは言語や思考の限界を示唆しており、言語や思考を超越した瞑想の重要性を物語っている。

追伸
徳(善い気持ち)が伴わなければ善行(行為)をしても良いことが返ってくるとは限らない。
ただ一般的に良いと思われることを続ければいつかは必ず良いことが返ってくる可能性はある。
ただその保証はないしあだで返ってくる可能性さえある。(不実功徳)
例えば良かれと思って悪いことをするなど。
何故ならこの世は無常(不変のものはない)からである。
この良いか悪いかの判断が重要だからこそ無我になり瞑想する必要がある。
過去現在未来他世界無限の全てを知る必要があるからである。
常人にはそれは無理だからこそ良い悪いの判断は適当で浅はかなので瞑想するしかないのである。
ちなみに瞑想でも良い悪いの判断は重要でもある。
瞑想の途中の段階で幻覚幻聴など様々なことを知るわけだが良いことも悪いことも知ることになる。
たとえば自分の徳が悪い性質を持っている、つまり悪いことを考えている場合邪念となり悪いことばかり知ってしまうだろう。
そうすれば魔境という地獄へ落ちてしまう。
統合失調症のような状態になった場合禅病といわれる。
瞑想にも注意が必要なのである。
何ごとにも動じない観念できる精神性が問われるところである。

以下AIによる再解説:

煩悩と脳のバランス、そしてカルマと瞑想の意味

私たちの心に常に起こる「煩悩」とは、意識があらゆるものを区別し、比較し、判断しようとすることから生まれます。善と悪、男と女、プラスとマイナス、有と無――こうした二元的な認識は、言語や論理を介した左脳的な思考活動の産物だといえるでしょう。

一方で、右脳は直観的、感覚的であり、言語を超えた世界に触れる力を持っています。そしてこの右脳の深い働きを促す道が「瞑想」にほかなりません。しかし、瞑想を正しく導くには理性的な理解、すなわち左脳によるサポートが欠かせません。つまり、片方だけでは不完全であり、左脳と右脳の調和が重要なのです。

煩悩とカルマのつながり

私たちの苦しみや不幸との根源には、カルマがあります。カルマとは行為そのもの、そしてその結果として現れる因果律のことです。「悪いことをすれば悪いことが返り、良いことをすれば良いことが返る」――これは仏教における因果応報、縁起の教えにほかなりません。縁起とは、あらゆる存在が関わり合い、相互作用して影響を与え合っていること。自らが起こすひとつの「アクション」は、必ず何らかの「リアクション」として戻ってくるのです。

このカルマを良きものへと導くには、善い行いを積み重ね、徳を育むしかありません。その第一歩はエゴを弱め、自分の行為が善いものであるかどうかを冷静に見極める力を養うことです。仏教ではこれを「懺悔(パティッサランナ)」とも言い、自らの過ちを顧みることで浄化が始まります。

自我を弱める修行と瞑想

しかし、エゴを手放すことは決して簡単ではありません。むしろエゴこそが、私たちに執着や欲望、怒りを生み出し、日常生活の至るところで煩悩を燃やしています。それを乗り越えるために修行や瞑想があり、自己を超えて無我へ至ろうとする実践があるのです。

瞑想の核心とは、善悪を分別せず、肯定も否定もせず、ただありのままを観ることです。すべてを受け入れ、冷静に観照する態度こそ、自我を弱める道なのです。

バランスの重要性

ただし、ここでも過度は禁物です。極端な苦行や過度な快楽、あるいは過剰な瞑想さえも逆効果をもたらします。大切なのはバランス。善悪の判断、努力と休息、修行と日常――両極の狭間にこそ調和があります。

現代社会では科学文明が急速に発展し、家電やスマホ、AIなどの便利さが人々を包んでいますが、それが逆に精神の不均衡や依存、煩悩の悪循環を生み出している側面も否めません。その意味で、現代こそ精神性を養う「瞑想」と「意識の観照」が求められているといえるでしょう。

言語を超える瞑想の力

仏教の立場では、そもそも分別や差別そのものを行いません。幸福があるのは不幸があるからであり、楽があるのは苦があるからです。これらは表裏一体であり、切り離せるものではありません。

修行をするということ自体も、現状を「否定」しているとも捉えられます。しかし仏教はそれさえも肯定せず、否定もせず、ただ「あるがまま」として受け止めます。これは言語や理性が持つ限界を示しており、分別を超えた直観の世界に至る「瞑想」の力を説明しているのです。

つまり、人生そのものが修行であり瞑想である以上、私たちは今この瞬間を大切に生き、過去や未来に囚われず、ほどよい調和の中で心を養っていく必要があるでしょう。

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