
我々は現実を否定したがる。
暑いのが嫌、寒いのが嫌、動く事や仕事がしんどい面倒くさい、それらは現実逃避である。
暑い寒い仕事をするのはあたりまえのことなのであたりまえのこと即ち現実を否定しているのである。
仕事がしんどいのもしんどいことを選んでいるからでありあたりまえの現実で起きたあたりまえのことなのである。
なぜしんどいかも辿っていけばわかることである。それが解ればあたりまえであることが解る。
これを我々は無明(無知)ゆえに解らず、単純に否定したがるのである。
現実を観れていない、つまり迷いの世界にいる状態である。
皮肉にも我々はその現実を否定してきたからこそ便利な家電やスマホやネットなどの道具や利器が作られた。
しかしこれらに頼り続けることは脳や肉体の退化を招く。最終的にはこのまま現状が続けば廃人になる。
サイボーグ化やトランスヒューマニズムは可能性として残されるが実現には時間がかかる。
今実現できることといえば瞑想である。
瞑想で現実をありのまま受け入れた時、現実逃避することがなくなり、受け入れたという事は"否定"するということがなくなることであり、肯定、つまり受容して受け入れられるようになることである。
それが"あるがまま"でありあるがままの"自由"なのである。
否定するという"否定"というところから我々は苦しむのである。
それが煩悩の元であり苦悩である。
我々が何故否定するのかといえば差別や分別をするからである。
これは良くこれは悪いと意識による識別(別ける事)をするからである。
朝飲むコーヒーはブラックなら本来ただの苦い豆からしぼった泥水のはずだが何故か美味いものである。
当然苦手な人もいるしそれは人による。何故なら人によって差別(識別)の仕方が違うからである。
観念的に全ての物質に価値を見出した時、全ての素粒子やほこりや汚物も幸福となり得るのである。
その時全てのものはすばらしいものとなり多幸感が得られる。価値のないものに価値を見出す謂わばわびさびの心である。
かといって全てを良いと観るのではなくそれさえも仏教は超越する。
非二元論である。
善と悪、男と女、+と-、0と1。
これら二元性を超えた先、つまりあるがままの世界が自由の本来の世界である。
それが空や涅槃に近づくための知恵である。
以下AIによる再解説
無常と自由 ― 涅槃における「持続」を超える幸福
人はいつの時代も「自由になりたい」と願う。
現実の束縛から逃れたい。社会、他人、自分自身――あらゆる制約を超えて「ありのままに存在したい」と。しかし、その「自由になりたい」という思いの中には、微細な“逃避”が潜んでいる。
私たちは、現実をそのまま受け入れられないからこそ、別の世界を夢見る。
けれど仏教の眼差しで見るなら、現実から逃げようとする心こそ、無常への抵抗なのだ。
■ 無常に逆らう自由は、真の自由ではない
「無常」とは、この宇宙の根本法則――すべてが移ろい、変化し、滅び、また生まれること。
私たちは頭でそれを理解しているつもりでも、心の底ではなお「変わらないもの」を探してしまう。たとえば瞑想の中で感じる幸福。
深い静寂の中に生まれる至福、心が完全に解放されるあの瞬間。
そのとき人は「これこそ本当の自由だ」と思うだろう。
だが、瞑想を終えると現実が戻ってくる。雑音や思考、感情や不安が再び立ち上がる。
そして私たちは思う――「この幸福を持続させたい」と。けれどその願いこそが、「無常」に反する心である。
幸福を永遠に保ちたいという思いは、流れ続ける現実を止めようとする行為だからだ。
仏教の視点では、それは「執着(upādāna)」であり、「自由を求めながら、再び束縛に戻る」心の動きでもある。
■ 涅槃は「持続」ではなく「超越」
仏教でいう涅槃(ニルヴァーナ)は、永遠の幸福でも持続的な恍惚でもない。
むしろ、「持続させたい」という欲求そのものが静まった状態。
そこでは「幸福」という二元性も、「時間」という概念も意味を失う。ブッダはこう説いている。
「涅槃は作られたものではない。生じることも滅することもない。」
つまり、涅槃とは「幸福の永続」ではなく、“持続という構造”を超えた自由そのものなのだ。
それは、“続けようとする心”が静まったときに自然に現れるもの。
「至福が消えること」を恐れない心こそ、涅槃の門を開く鍵になる。
■ 一時的な自由と究極の自由
瞑想で得られる至福は、いわば「一時的な自由」である。
サマーディ(定)の中では、煩悩や執着が一時的に鎮まり、心が澄み渡る。
しかしそれは条件付きの自由――原因があれば生じ、条件が崩れれば消える。一方で、「究極の自由」とは、条件の有無を超えた状態。
それが涅槃であり、ブッダの語る「苦の止滅」である。
それは幸福の“持続”ではなく、幸福を“必要としない心の静けさ”だ。
■ 五大との関係性 ― 無常を構成するエレメントの流動
密教では、この世界も人間も、五大(地・水・火・風・空)によって構成されていると説かれる。
五大とは単なる物質の比喩ではなく、存在のダイナミズムを示す象徴である。
そして、それぞれが「無常」と「自由」の本質を映し出している。
- 地(ち):形あるもの。身体、構造、安定。だが、すべての形はやがて崩れる。
→ 「固定化への執着」が手放されたとき、地は安らぎに変わる。水(すい):感情と流動。愛や悲しみの象徴。
→ 感情を止めようとせず、流れとして観照するとき、水は智慧に変わる。火(か):意志、変化、欲望、生命の力。
→ 燃え尽きることを恐れずに燃やし尽くすとき、火は浄化の光になる。風(ふう):思考、呼吸、運動。
→ 流れに逆らわず、風そのものとして生きるとき、自由が生まれる。空(くう):全てを包む無限の場。
→ 空は他の四大を含みつつ、それらを超える。「持続」も「滅」も超えた次元。
すなわち、涅槃の象徴である。この五大は、私たちの心の中にも絶えず変化しながら存在している。
瞑想とは、五大のバランスが調い、最後に「空」が顕現するプロセスでもある。
その瞬間、五大は調和し、世界と自分の境界が溶ける――
まさに「無常そのものが自由であった」と悟る地点である。
■ 幸福を保とうとしない幸福
ここに逆説がある。
幸福を「維持しよう」と思う限り、幸福は逃げていく。
しかし、「維持する必要がない」と気づいたとき、幸福はそこに自然に留まる。
それは“静止した幸福”ではなく、“流動する幸福”――波と一体化した静寂である。無常とは、変化そのものが真実であるということ。
ならば、変化の中に身を委ねて生きることこそが、無常と調和した生き方であり、
「自由を持続させようとせずに、自由の流れに在る」という在り方なのだ。
■ 日常生活での実践
この真理は、瞑想の中だけでなく、日常にも応用できる。
・何かが上手くいったとき、それをずっと続けようとしない。
・誰かとの関係が変化しても、「変わること」を自然なリズムとして受け入れる。
・心が静まる瞬間に、「このまま続いてほしい」と思う代わりに、「今ここにある」ことを観る。そのようにして生きると、現実逃避ではなく現実との一体化が起こる。
逃げなくても、苦しまなくても、すべてが流れとして自然に消えていく。
そのとき、私たちはようやく気づく。
自由とは「何かを手に入れること」ではなく、「何かを手放しても平然でいられること」なのだと。
■ 結語 ― 無常に生きることは、自由に生きること
無常を恐れるのではなく、無常に委ねる。
幸福を握りしめるのではなく、幸福が消えていくことを微笑みながら見つめる。
それが、ブッダが語った「真の自由」である。自由とは、続かないことを受け入れた心の静けさ。
そしてその静けさの中で、すべての瞬間は永遠に輝いている。