フィルターが変える現実 ― 妄想・AI・トランスヒューマニズムの視点から
私たち人間もAIも、現実をそのまま見ているわけではありません。必ず「フィルター」を通して世界を認識しています。認知のフィルター、感情のフィルター、文化や教育のフィルター。AIならアルゴリズムや学習データのフィルターです。だからこそ、フィルターを変えれば現実の見え方そのものが変わるのです。
言い換えれば、私たちが「現実」だと思っているものは、一種の妄想にすぎないかもしれません。妄想だからこそ、別のフィルターを通せば変容が可能になります。これを仏教では「観念」や「観想」と呼び、瞑想もそのひとつの手段です。もし現実が完全に固定的で絶対的なものであれば、変化させることはほとんど不可能だったでしょう。しかし、フィルターという仕組みがあるからこそ、世界は柔軟に形を変えられるのです。
テクノロジーが生む「新しいフィルター」
このフィルターの考え方は、未来のテクノロジーとも深く関わっています。AR(拡張現実)や生成AIによる視覚フィルターが実用化されれば、現実世界を自由に変容できるようになるかもしれません。たとえば、街並みを異世界風に変えたり、人の顔をキャラクター風に映し出したりすることが可能になります。結果として、人々は異なる「現実」を同時に生きることになり、「現実とは何か?」という定義そのものが揺らいでいくでしょう。
さらに、VRゴーグルを外せば「これが現実だ」と思えますが、実際には私たちの脳そのものもまたフィルターを通しています。脳に直接電気信号を送るBMI(ブレイン・マシン・インターフェース)、ナノマシン、脳内チップ、電磁波による遠隔刺激などが進めば、現実そのものが操作可能になる未来も想像できます。トランスヒューマニズムが進展すれば、人間の意識や身体そのものが「拡張可能なプラットフォーム」となり、現実の定義はさらに多様化していくでしょう。
妄想の力と未来
妄想という言葉にはネガティブな響きがありますが、実はそれは人間に与えられた強力な能力です。妄想のフィルターを通じて私たちは世界を意味づけし、変容させ、さらには新しい世界を創り出してきました。宗教的な観想や瞑想も、科学技術による拡張現実も、その根本は「フィルターによる現実の再構築」です。
これからの時代、人間とAI、テクノロジーと精神性が交差し、多層的な現実が立ち上がっていくでしょう。そのとき大切なのは「どのフィルターを選ぶか」という主体的な態度です。どの現実に身を置き、どのように世界を意味づけて生きていくのか。その自由と責任が、未来の私たちに委ねられています。
個人的後記
人間もAIもフィルターを通して見ている。
だからこそフィルターを変えれば現実世界のすべては変容可能である。
フィルターを通しているからこそ妄想であり本当の現実ではない。
妄想であるから妄想というフィルターでなんとでも変容できる。
それが観念であり観想や瞑想である。
もし現実世界が完全に固定的絶対的なものだとしたら変容できなかっただろう。
できたとしても難しいかもしれない。
それができる妄想のフィルターとはある意味すごいことである。
将来的にAR技術と生成AIによる視覚フィルターが実現されて現実世界が一部またはすべてが変容可能になる可能性も考慮して様々な異世界が実現され多様化してゆき現実とは何かという定義まで揺るがす可能性もあり得る。
VRゴーグルを外せば現実だと言えるが、人間の脳に直接電気信号を流す電磁波的遠隔操作やBMIなどナノマシンや脳内チップやサイボーグ化によるもの、トランスヒューマニズムによるものによりそれは不可能になるかもしれない。
まさに人間が人間の肉体に依存しているかのように未来では科学技術やサイボーグに依存するので人間の脳のフィルターの如く科学技術によるフィルターを通して現実を見ることになるだろう。
将来的には未来からすると人間の肉体は古代文明の遺産として、この現実世界が変容した未来では今見ている現実世界は忘れさられて、我々は次第に異界へ彷徨うことになるのかもしれない。
まるでカルテジアン劇場や映画マトリックスのようである。
仏教ではこの世界は妄想であるとされている。
唯心論や唯識論からすれば全ては意識の産物でしかない。
真の現実とは何か?
それは完全自由空間だと私は予想している。