我々が何か考えられるという事はどうにでも考えられるという状態であることを現している。
つまり本質的には観念によりどうにでもなる自由な状態なのである。
しかし無知という迷いによって妄想が生じ煩悩が生じて苦しんでいる悩んでいるのである。
この状態が迷いであり正しく考えられない状態だったとしてもそれを受け入れ考えられない状態もまた自由である。
考えない事は何も悩みがない自由な状態である。
無知であるからして自由であり、無知であるからして妄想し、妄想できるからして自由である。
そうでないからしてそうであり、そうであるからしてそうでない。
言わんとするところ自由故の自業自得即ちカルマの事である。
何も考えられない時は自由であり、何か考えられる限りは自由である【哲学・スピリチュアル・仏教密教・無我・無常・瞑想・論理学】
2025/01/24
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