差別と娯楽 ― 左脳と右脳、瞑想の視点から
私たち人間は「差別する存在」である。
この「差別」という言葉を、ここでは「区別」「識別」と広い意味で捉えてみたい。なぜなら、日常生活も、科学も、そして娯楽の多くも、「同じもの」と「違うもの」を分けるところから始まるからだ。
そして皮肉なことに、人は差別したものに惹かれる。異質なもの、拒絶したもの、社会から外れたものが、むしろ強烈な魅力を帯びることがある。左脳の役割 ― 差別と識別のエンジン
左脳は理性、論理、言語の中枢とされる。
「これは危険」「これは安全」「これは敵」「これは味方」と、世界を秩序立てて区別していくのは、左脳の得意分野だ。この識別作用は、生存のためには必要不可欠である。
だが行き過ぎると、現実世界での差別、分断、排除を生み出す。娯楽における差別の逆説
しかし、人間はその「差別意識」さえ娯楽に変えてしまう。
映画やドラマは、善と悪、普通と異常、富と貧困といった差別的構造を物語に組み込む。
観客はそこに恐怖し、共感し、ときに喝采を送る。つまり娯楽とは、差別を「安全な仮想空間」で楽しむ行為でもある。
右脳と瞑想 ― 差別を超える視点
では、右脳はどうだろうか。
右脳は直感、イメージ、全体性、非言語的感覚を司るとされる。
左脳が差別し、世界を分けて理解するのに対し、右脳はその断片を「ひとつの流れ」として受け止める。ここに瞑想の役割が重なる。
瞑想は、左脳的な区別や言語的判断を一時的に静め、右脳的な「全体性の感覚」を呼び覚ます。
差別で切り刻まれた現実を、その背後にある「一つの空(くう)」として捉える助けになる。差別と平等の弁証法
仏教では「差別即平等」「平等即差別」という表現がある。
すべての存在は平等に空であるが、この世に現れる以上は差別がある。
そして、その差別を理解した上で平等を悟ることが、智慧でもある。つまり、左脳による差別は悪ではなく、むしろ悟りに至るための補助線なのだ。
右脳や瞑想がそれを補完することで、差別と平等のバランスがとれる。結論 ― 差別を遊ぶ人間の可能性
人間は差別するからこそ、その異質性に惹かれ、娯楽を生み出す。
左脳が作る区別と、右脳や瞑想が示す全体性。
この両輪があるからこそ、人間は現実を生き抜きながら、同時にその「超越的な意味」を探求できる。娯楽における差別は、人間が「違いを楽しみながら、同じであることを学ぶ」ための舞台なのかもしれない。
個人的後記
差別は基本的に仏教ではしない。
ただ煩悩を逆に利用することはある。
左脳が差別を行っているので左脳が右脳をサポートしてやることができる。
それにより差別を解消させることが目標である。
娯楽により差別を合理化させているのではなくバランスを保つことにより差別をしても良いという風な誤解を招かないように注意していただきたい。
差別することなく全てはひとつである。これを悟ることが目標である。