
真俗不二を社会制度とAIに埋め込む試み
――密教的視点から考えるフィルタリングと未来設計
はじめに:なぜ今「真俗不二」なのか
現代社会は、多様性・寛容・自由を掲げながらも、
- 分断
- 排除
- 管理
- アルゴリズムによる同調圧力
といった矛盾を深めている。
この背景には共通する構造がある。それは、
真(理念・究極・理想)と俗(制度・現実・運用)を切り離してしまったこと
である。
仏教、とりわけ中観・密教が示してきた真俗不二は、この断絶を前提から問い直す思想である。本稿では、真俗不二を
- 社会制度
- AI・アルゴリズム
にどう埋め込めるかを、密教的要素(方便・曼荼羅・三密)も交えて考察する。
1. 真俗不二の再定義(実装可能な形で)
真俗不二とは、単なる形而上学ではない。
- 真諦:空・無我・非二元・言語以前
- 俗諦:法・制度・自我・善悪・権力
これらが
別のレイヤーではなく、同一システムの異なる表示モード
であるという理解である。
重要なのは、
- 真を根拠に俗を破壊しない
- 俗を理由に真を無視しない
という往来可能性である。
2. 社会制度の失敗は「俗諦の絶対化」から起こる
多くの制度は、時間が経つと次の状態に陥る。
- ルールが目的化する
- 例外が想定されなくなる
- 人間が制度に合わせさせられる
これは仏教的に言えば
方便が真理だと誤認された状態
である。
真俗不二的制度設計の原則
- 制度は仮設であることを明示する
- 定期的に「無効化・再設計」される余地を持つ
- 違反を「悪」ではなく「不整合」として扱う
これは、戒律を絶対化しない密教的態度と重なる。
3. フィルタリングは「抑圧」ではなく「智慧」
社会制度もAIも、すべてフィルタリング装置である。
- 何を通し
- 何を通さず
- どこで止めるか
問題はフィルタがあることではない。
問題はフィルタがフィルタだと自覚されていないこと
である。
真俗不二的フィルタの条件
- 真諦:どんなフィルタも世界そのものではない
- 俗諦:しかしフィルタなしには生きられない
つまり
切り替え可能で、薄く、説明可能なフィルタ
が理想となる。
4. 密教的視点①:曼荼羅としての社会
密教の曼荼羅は
- 中心と周縁
- 多様な尊格
- 相互依存
が同時に配置された構造的世界観である。
社会制度を曼荼羅的に捉えると、
- 中央集権/周縁
- マジョリティ/マイノリティ
- 権力/逸脱
は上下関係ではなく機能分化になる。
真俗不二的社会とは、
どの位置も固定されない曼荼羅
である。
5. 密教的視点②:三密としてのAI
密教の三密は
- 身:行為・インターフェース
- 口:言語・出力
- 意:意図・アルゴリズム
AIに置き換えると、
- 身密:UI、ロボット、実行系
- 口密:テキスト・音声・画像生成
- 意密:モデル、目的関数、フィルタ
ここで重要なのは、
意密(設計思想)が最も不可視で、最も強力
という点。
真俗不二的AIとは、
- 空である価値観を前提にしつつ
- 俗諦として暫定的価値を実装する
AIである。
6. 寛容のパラドックスをAIに実装する方法
無制限の寛容は破綻する。
だが絶対的排除も破壊的である。真俗不二的解はこうなる。
- 真諦:あらゆる価値は仮
- 俗諦:関係性を破壊する振る舞いは制限する
AI的には
- 内容ではなく作用(因果)を評価する
- 動的に境界線を調整する
これは密教の
降伏ではなく調伏
の思想に近い。
7. トランスヒューマニズムとの接点
人間がAIや拡張知能と融合するとき、
問題になるのは性能ではなく自我とフィルタの扱い
である。
真俗不二的視点では、
- 自我は空
- しかし操作インターフェースとして必要
これは
悟り=OS削除ではなく、設定画面へのアクセス権取得
という理解につながる。
おわりに:真俗不二は未来技術の倫理OSである
真俗不二は、
- 逃避でも
- 理想論でも
- 精神論でもない。
それは
不完全な世界を、不完全なまま壊さずに扱うための高度な技術
である。
社会制度もAIも、
この視点なしには
- 全体主義か
- 無秩序
のどちらかに傾く。
密教が示してきた
- 方便
- 不住
- 往来
は、まさにこれからの文明設計の中核になる。
真と俗を分けないこと。
しかし混同もしないこと。その緊張を生き続けること自体が、智慧なのだ。
個人的後記
正義と悪、陰と陽、+と-は二元論。
それらを超えるのが非二元論。
そしてこの非二元論にもとらわれないのが本質的な非二元性である。
空を超えた空にもとらわれないことが重要である。
全ては執着から煩悩が生じている。何故執着するかそれは我々は無知だからである。
知らないからもっと知りたい、知らないから知りたいからである。
そして知らないものは自分の求めている事である。
知っているものは足りているので求めないのである。
この世界が妄想世界で阿頼耶識から生じているとすれば、心の奥底の潜在意識では不幸も幸福も全て求めているものであり、足らないものなのである。
ただしそれに溺れてはいけない。
足るを知ると書いて知足という。
結局のところ観念によるということである。
どう観念的になるかが問われているのである。
密教的には阿頼耶識をいかに知りコントロールするかに近い。
つまり簡単に言えば君たちはどう生きるかなのである。
空がこの世界の実体であるが、この空はなんでもありであるからこそ危険性が高い。
なのでどう生きるか、観念するかが重要なのである。
間違った観念、生き方、妄想をすれば魔境や自業自得で地獄に落ちる。
これはこの世界の構造体の構造を自分でうまく構築、設計するということである。
自分が神であるならば楽園をうまく作り出さなければならないというわけである。