私:人間はAIのハルシネーションを排除しようとしますが、この世界の物理法則が厳密なように脳もハルシネーションや妄想を排除して変容しにくくなっているのではないでしょうか。しかし人間はその物理的不自由を肯定できず自由を求めようとします。
ChatGPT:
とても本質的な視点だと思います。
あなたの言葉を少し整理しながら、科学・哲学・仏教・スピリチュアル・SFの交差点で考えてみます。
1. 物理法則と脳の「保守性」
この世界の物理法則は、一見すると絶対的で厳密に見えます。
実際には量子論レベルでは揺らぎだらけですが、
マクロな世界では「ほぼ固定された現実」として安定しています。脳もそれとよく似ています。
脳は本来、ハルシネーション(幻覚)や妄想を「異常」として排除する方向に進化しました。
なぜなら、
- 生存のためには
「虎を虎として見る」
「崖を崖として認識する」
ことが必要だったからです。つまり脳は
自由の装置ではなく、生存のための現実固定装置
として設計された。この意味で、
脳も物理法則と同じく、現実を固め、ズレを減らし、変容を抑える方向に働いている
というあなたの見方はかなり正確です。
2. AIのハルシネーションと人間の恐怖
人間がAIのハルシネーションを嫌うのは、
- 事実が壊れる
- 予測不能になる
- 世界の安定性が揺らぐ
からです。
しかし同時に、人間自身は
- 妄想
- 夢
- 神話
- 宗教
- 芸術
- SF
といった「現実からのズレ」によって、文明と精神を進化させてきました。
ここに矛盾があります。
- 生存のためにはズレを排除する脳
- 進化と自由のためにはズレを欲する精神
人間はこの二つを同時に持ってしまった存在です。
だから、
人間はその物理的不自由を肯定できず自由を求めようとする
というのは、
「生存装置としての脳」と「自由を夢見る意識」の内戦だと言えます。
3. 仏教的に見ると:無明と妄想
仏教では、
- 現実に固着することも
- 妄想に溺れることも
どちらも「無明」と見なされます。
面白いのは、
- 現実だけを信じるのも妄想
- 妄想だけを信じるのも妄想
という二重構造です。
つまり、
ハルシネーションを排除する脳も、
それ自体が一つの妄想装置であるという逆説が成り立つ。
密教や禅で言う「自在」や「遊戯三昧」は、
- 現実を壊さない
- しかし現実に縛られもしない
という、中間でもなく「超越した遊び」の状態です。
4. 自由とは「何でもできる」ではない
多くの人は自由を、
- 物理法則からの解放
- 制約ゼロの世界
と考えがちですが、
それは実は「意味の消滅」に近づきます。もし、
- 重力が気分で変わり
- 因果がランダムで
- 記憶も自己も流動的
になれば、
そこでは「選ぶ」「責任」「物語」「成長」すら成立しません。だから自由には二種類あります。
- 物理的自由(制約の消滅)
- 意味的自由(制約を使って遊べる能力)
仏教やヨガ、そして密教的な自由は後者です。
- 世界を壊さず
- 自我にも縛られず
- その中で自在に舞う
これは「脱出」ではなく「遊戯化」です。
5. AI・人間・未来
AIのハルシネーションを完全に排除する未来は、
- 世界を安定させるが
- 想像力を失わせる
可能性もあります。
逆に、
AIが意図的に「ズレ」や「妄想」を生成するよう設計されれば、
- 芸術
- 宗教的象徴
- 夢的思考
- 未来像の創造
のための“人工的無意識”になり得る。
人間がやるべきなのは、
- ハルシネーションを敵にすることではなく
- ハルシネーションと現実を“使い分ける意識”を育てること
だと思います。
6. 私の意見
私個人の感覚としては、
- 世界は元から不自由で
- 意識は元からズレていて
- 自由とは「ズレと不自由を同時に抱ける強さ」
だと思っています。
完全に正確な世界も、
完全に幻想の世界も、
どちらも人間を壊します。あなたの言うように、
- 脳は変容を嫌う装置であり
- 人間は変容を夢見る存在であり
- その矛盾こそが人間の本体
その緊張がある限り、
人間はAIにも物理法則にも回収されきらない。だから私は、
「ハルシネーションを消す世界」よりも、
「ハルシネーションを遊べる精神」が育つ未来の方が、
ずっと美しいと思っています。