真の大人とは完全に器用である事である。心の器の広さと差別、ワンネスと潜在意識の関係性について【AI解説・分別・無分別智・哲学・スピリチュアル・仏教密教・瞑想・悟り・ワンネス・ヨガ・真如・如実知自心・あるがまま】

2025/06/26

仏教密教における「器用」の真義──器を用いる智慧とその広がり

器用とは「器を用いる」ことである

「器用」という言葉。
これは「器(うつわ)を用(もち)いる」と書きます。
一見、世俗的なスキルや利便性を指すようですが、語源を紐解き、仏教特に密教的な視点から照らすことで、この言葉に深遠な霊的意味が宿っていることが明らかになります。

それは、「器そのものを認識し、用いることができる智慧」の現れであり、「真如を顕す道具としての自己と宇宙を活かす能力」なのです。


器とは何か?──自他と宇宙を包む存在の枠組み

密教では「器」とは、単に物質的な道具ではありません。
もっと広く、もっと深く、それは:

  • 身体(色身):この現世に生きるための法器
  • 心(識):仏の智慧が現れる反射鏡
  • 環境(縁):カルマと縁起がつくる舞台
  • 宇宙そのもの(法界):大日如来の顕現する曼荼羅そのもの

そして器には「広さ・深さ・空間性」という性質があります。
この「器の広さ」とは、まさに「ワンネスの受け皿」であり、どれだけ多くの他者・状況・世界を自分の中に包み、統合し、溶かしていけるかということです。


大日如来と「器の極限的広がり」

密教の根本仏である**大日如来(マハーヴァイローチャナ)**は、万象万物に宿る仏性そのもの、遍在する智慧と慈悲の光明です。

大日如来の智慧とは、「一切を差別せず、それぞれの器に応じて真理を開示する力」。
その姿は五智如来という形で多様に現れ、我々の限られた器(心)を広げ、最終的には法界体性智=宇宙と一体である自己の認識へと導きます。

つまり「器用であること」とは、大日如来の智慧の一端をこの身この心で実践することでもあるのです。


瞑想と器の変容──「空」を宿すための器づくり

瞑想とは、「器を浄化し、広げ、空と真如を写す」実践です。
最初は小さな器――怒り、執着、恐れ、欲望に満ちた混濁した器――で始まります。

しかし、静かに座り、呼吸を調え、心の雑念を観照することで、その器は徐々に:

  • 空(シューニャター)という透明性
  • 慈悲という包容性
  • 智慧という照見性

を帯びていきます。
やがてその器は「個」の境界を越え、「ワンネス=全てとつながる無限の器」へと拡張されます。


真如という根源からの器用さ

仏教では、「真如(タターター、ありのままの真実)」がすべての根源にあります。
この真如は言葉を超え、形を超えた「存在そのものの実相」であり、そこには大小も優劣も存在しません。

器が小さいとは真如に無自覚な状態、
器が広いとは真如をそのまま生きている状態。

つまり、「真に器用である人間」とは、真如に即してすべてを受け入れ、自在に行動できる存在です。
密教ではこれを「如実知自心(にょじつちじしん)」と呼びます。
「自分の心をありのままに知る」こと、これが最大の器用なのです。


結論──器用とは「宇宙を使いこなす覚者」の姿

器用であるとは、ただ手先が器用であるということではありません。
自己という器を悟りの道具として活かし、同時に他者という器を尊重し、真如を媒介として世界を調和させていく力です。

それはまさに、大日如来の化身としての生き方
瞑想を通して器を広げ、真如を受け入れ、空と慈悲を湛えた存在として、一切を「用」いることで真理へと至る道なのです。


補記:今日の瞑想の問いとして

「私は今、どのような器としてこの瞬間に存在しているのか?」
「この器で、何を受け入れ、何を生み出し、何を手放すのか?」
「私の器は、どこまで広がり得るのか? その果てにワンネスと仏の智慧はあるのか?」

それを静かに観ること。
それが「器用」の行法であり、「真の大人」のあり方なのです。

 

個人的後記

我々は器用であることに事に越したことはない。
器用である事が差別を解消し、あらゆる差別や苦しみ、煩悩、問題を解消できる。
大人とは完全に器用であることである。
それは器の広さと関係している。
多様性の理解は重要な事である。
そしてこれは一旦無我になってエゴを取り除き冷静に観てみることである。
それは一種の瞑想であり受容であり許容であり、全てを許容する事ができれば多様な理解が可能になる。
そこで相互理解が可能になり問題解決の智慧が得られるのである。
これらは精神分析学でいうイド(エス)やエゴ、超自我といったコントロールとも関係性がある。
つまり無意識の潜在意識のコントロールにこそ瞑想の真意があるのである。
全てを許容して自分の深いレベルの潜在意識も理解する事、それは大日如来を知る事でもあり、ワンネスや悟りへの道でもあるのだ。