生成AIやディープフェイク、未来からした過去の真実はわからなくなっていく危険性、そして倫理観【AI解説・哲学・スピリチュアル・仏教密教・瞑想・悟り・仮想現実・トランスヒューマニズム・近未来・過去の改変・伝記・伝言ゲーム・ネットのデマ情報・情報学・情報錯綜】

2025/06/22

真実は誰のものか──改変される過去とフェイクの時代における倫理

かつて、歴史とは「書かれたもの」であった。
古文書、古本、寺院の記録、個人の日記――そこに残された文字は、人々の記憶と共に時代を超えて伝えられてきた。

しかし、現代に生きる我々は一つの大きな転換点にいる。
「真実」が誰かの手によって書かれ、「虚構」がまるで真実のように機能し始めている。

ネットと古典の分断:過去は再構築される

インターネットの登場は、情報へのアクセスを劇的に加速させたが、それは同時に「情報の均質化」と「断片化」をも引き起こした。
たとえば、古文書や戦前の古本の記述がネット上に反映されることは稀であり、紙媒体の世界はデジタル化の波から意図的に、あるいは偶然に取り残されている。

これは、ある意味で「過去と現在の断絶」を生んでいる。
私たちがネット上で「歴史」として認識するものは、本当に過去に起きたことの“全体像”ではなく、切り取られ、時に加工された「都合のいい履歴」に過ぎない。

テレビとネット:どちらが真実か

テレビ番組の多くは台本に基づいて作られ、現実とフィクションの境界は曖昧だ。
バラエティも報道も、映像が「演出」であることを前提に作られる。

一方、ネットはより自由で多様性に富んでいるが、その分フェイクニュースや陰謀論も混在し、「何が本当なのか」を見極めることが難しくなっている。

ここで興味深いのは、真実そのものよりも、“真実っぽさ”の演出が重視されているという現象である。

生成AIの台頭:虚構の精度が高まる

さらに、生成AI(ChatGPTや画像生成AI)の進化により、リアルとフェイクの差異が視覚的にも聴覚的にも曖昧になってきている。

  • 写真や映像は簡単に加工できる
  • 声も文章も本人そっくりに生成できる
  • ハルシネーション(虚構生成)により、本当にありそうな「嘘」が次々と生まれる

そしてそれらを見た人々の記憶までもが、フェイクに“上書き”されていく。

未来においては、もはや**「過去は本当にあったのか?」という哲学的問い**にさえ答える術を持たなくなるかもしれない。

「フェイクが当たり前」になる世界

画質の補正、声の修正、SNSでの美化された自己表現。
これらはすでに「人間のあるべき姿」を再定義し始めている。
やがて、「フェイクであることを誰も気にしなくなる」未来が訪れる可能性も否定できない。

その世界では、「真実を追求する倫理観」自体が失われ、「信じたいものだけを信じる」選択的現実が支配するだろう。

結論:倫理こそが最後の拠り所となる

情報が改変され、記録が書き換えられ、フェイクが常態化する時代において、
我々が守るべきは“記録”ではなく“倫理”である。

倫理とは、ただのルールや道徳ではない。
それは、「何が真実かを問い続けようとする姿勢」そのものである。

瞑想的な視点から見るならば、すべての現実はマーヤ(幻影)であり、ブッダの教えも「すべては空(くう)」と説く。
だがそれは「どうでもいい」ということではなく、幻の中にあっても誠実に、真実に向かおうとする意志を試しているのである。


真実は、記憶の中にではなく、我々の行為と姿勢の中に宿る。
「本当の過去は今でも知ることはできない」。
だが、それでもなお、真実を探し求める姿勢だけは、決して偽ることができないのである。

 

個人的後記

古文書や古本からネットの情報は分離されて過去が改変されかけている。
テレビは台本通りで事実かどうかわからない部分が多く不透明でネットの情報は偽の情報があり情報統制も存在する。
そして近年生成AIにより現実かフェイクかわからなくなりつつある。判別AIにも現状限界がある。そしてハルシネーションにより更に現実と妄想が交差する。そして次世代の未来の頃には過去が本当の事なのかどうかわからなくなっているだろう。しかし映像の画質を調整したり消しゴムマジックやAIによる修正がされるのが当たり前のようにフェイクも当たり前になり気にする人々はいなくなる可能性がある。そこで倫理観の問題が重要になってくる。本当の過去は今でも知ることはできない。
個人的には将来的に超未来の技術で全て真実は判明し判別可能になるとは予想しているが可能性でしかない。アカシックレコードも存在するかもしれない。