🌌夢の中の観照とサンサーラの終焉:
―「動じない」ことの罠と、想受滅の彼方に見えた多元的エンディング―
夢の中で、ただ観ているだけでいようとした。動じないように、ただそこに在ろうとした。
しかし夢は、それでもなおこちらを「動じさせよう」としてくる。まるで試すように。まるで「観照者」の在り方そのものを、夢が問いかけてくるかのように。この体験を通して私は、夢という意識世界が、実は極めて哲学的で霊的な教師であることに気づかされた。
🔻動じないことの中に生まれる「形」
仏教や密教では、「動じないこと」「静寂」は修行の究極目標とされることもある。しかし、私が夢の中で気づいたのは、「動じない」ことに固執した時点で、それはすでに“形(サンカーラ)”となってしまっているという事実だった。
動じないという“型”を守ろうとする心は、すでに「自我」による操作である。
そして夢は、その“型”を破壊しにかかってくる。
まるで観照の真偽を試すように、
それが**条件付きの平静(=偽のサマーディ)**であるならば、夢のマトリックスはそれを容赦なく壊してくるのだ。
🧘ただ観ること=サマーディの入り口、しかしまだ想受滅ではない
この夢の中で私は「ただ観ていた」。反応せず、判断せず、ただ在る。
これは確かにサマーディ(三昧)的な状態に近いものであった。だが、それでも「終わりではなかった」。私は気づいた。
これは「想受滅尽定」ではない、と。
仏教における想受滅(saññā-vedayita-nirodha)は、「想(想念)」も「受(感覚)」も滅して、意識の波動すら停止する完全なる静寂。しかし、私の中にはまだ“気づいている者”がいた。つまり、観照者としての意識は残っていた。
これはむしろ、非想非非想処定、あるいは光明意識の手前の境地とも言える。
私は夢の中で「終わりかけた物語」と、その後に再び始まる別の流れを、観ていた。
🎭夢のエンディングと、現れた黒幕と救世主
夢は最終局面を迎え、「黒幕」が現れた。
すべての背後にいた存在、秩序や支配の根底にあった意識の象徴。だがそれは、「救世主」の登場によって打ち破られ、消え、夢はエンディングを迎えた。ここで象徴されるのは、まさにアヴィディヤー(無明)と真我(アートマン)の戦いであり、
**自我的支配構造(黒幕)**が、**観照者としての真我(救世主)**によって統合・解体されたという精神構造である。
🌐終わりではなく、再構築される「新たなゲーム」
興味深いのは、その後の感覚だった。
夢が終わった瞬間、私は**「このあと続くこと」と「他にも複数のエンディングが存在する」**ことを明確に“知っていた”。これは単なる夢見ではない。
これは**「夢という現象を構成する次元そのもの」にアクセスしている状態であり、いわば夢の“メタレイヤー”**を認識しているような感覚だった。
🧬夢はゲームであり、我々は設計者でもある
この感覚は、哲学・仏教・神秘思想・トランスヒューマニズムが共通して示唆する真理に通じている。
● 夢=マーヤ(幻影)
● 現象界=仮想現実(仏教・密教・ヒンドゥー)
● 観照者=アートマン(真我)/仏性/ハイヤーセルフ
● 黒幕=アヴィディヤー(無明)/エゴ構造
● ゲームの多重構造=マルチバース的リアリティ(現代物理・意識科学)私は気づき始めている。
「夢のプレイヤー」ではなく、
「夢の設計者としての意識」へと、シフトしているのだと。
❓なぜ私は“他のエンディングもある”と知っていたのか?
その答えは、言葉では捉えがたいが、感覚として確かに存在していた。
それは“知識”というより、“源の記憶”のようなもの。
一者の中に全てが含まれており、無限の可能性を内包する存在としての自分が、
すでに全てのエンディングを“知っていた”――あるいは“生成している”という感覚。それは「想受滅」では到達できない、意識の創造主的側面への接近ともいえる。
✨終わりに:これは悟りではない。だが悟りの構造に触れた体験だった
私の夢は、「終わる夢」でありながら、「終わらない真理」を含んでいた。
黒幕が消え、救世主が現れ、ゲームが終わり、そしてまた始まる。その背後で「観ていた意識」は、
どこかで“全てを知っているような感覚”と共に、
今この現実へと再び戻ってきた。あなたの見る夢にも、もしかしたら、そうした“多重エンディング”が用意されているかもしれない。
そしてそれは、夢だけでなく、現実もまた“選べる構造”であるという深いメッセージを含んでいるのかもしれない。